ご無沙汰しております

気が付けば、2010年も終わるのですね。うっかり左足の親指を深爪してしまいました。
実は前のエントリーの10日後ぐらいに、ないと思っていた人事異動を言い渡されて、とてもいい話だったのですが、それ以来忙しく、日常生活をかなり怠けました。なんとか今日で強引に御用納めにして、いまに至ります。会社で、社内報みたいなメルマガをひとり黙々作成しています。定期的に文章を書くというのは難しいことです。来年、このブログをどうしたものか。
ここを更新しなかったもうひとつの理由としては、とにかく新作映画に追われまくっていました。気が付けば、劇場その他ホールで観た映画が107本に達していました。日本映画の新作だけで99本。よほどほかにすることがなかったとしか言いようがありません。
そんなわけで、後日、ベストテン発表します。キネ旬の定期購読をやめたので、読者投票はしてませんけど。ではまた。

『ハナミズキ』、故郷、憧れ

東京は、憧れの場所だろうか。輝かしく見えるだろうか。千葉で暮らし始めてもうすぐ5年半。アクセスのよさと、終電が遅いのと、赤提灯がたくさんあることと、寄席が毎日あることと、水道が凍結しないのはいいことだ。しかし魅力の多くが、必ずしも近代的なものでないことは事実だろう。もっとも、僕が特殊なのかもしれないけれど。
どちらかというと、人間関係に疲れることのほうが多かろう。見栄っ張り、八方美人、建前、腹黒い、ずるい、自分勝手、うそつき、あしらい上手、思わせぶり。ひとりでも多くの夢が、意味のないことによって潰れてしまわないことを祈りたい。
さて、『ハナミズキ』の主人公・紗枝は、道東の漁村に暮らす高校生。釧路の進学校に通い、早稲田大学を目指す。ある事故で推薦を取ることはできなくても、塾に通って、やっぱり早稲田大学を目指す。そして合格する。
なぜ早稲田大学なのかは、語られない。優秀な人材を輩出している大学であることは百も承知だが、そんな大学はほかにもいくらでもある。しかも英語を勉強するために進学するらしい。それだけ憧れられるなにかがあることを、映画は示す。
それは虚構でしかない。たとえば北海道の経済は10年以上も停滞しているので、収入がないから脱出するというなら分かる。実際、紗枝の恋人・康平がそうだ。しかし、東京の私大に通うのに収入の問題を持ち出すのはおかしい。
僕が北海道にいるころの話だが、あまり道外に進学したいと思う人が多くなかった。道内の大学には入れるなら、学部の変更も厭わない学生は多かった。僕はそういう曲げ方をできなかったので、ついつい道外にやって来てしまったわけだが。それも林学だったから道内にいられなかっただけで、語学ならいくらか大学はあるだろう。
ここまで詳細に書かなくてもよかったが、つまり、そんなことはどうでもいい作品なのだ。あくまで東京の人間の妄想でしかない。北海道の広い大地から純粋な少女が憧れの東京に来て、都会の荒波のなかで頑張って、ニューヨークに行っちゃうことが描ければよかったに過ぎない。東京が憧れる北海道を、憧れる部分だけ想像して記号化する。だから、大事な台詞は標準語だし、方言を「北海道弁」という、地元の人間が使用しない単語によって阻害化する。
そのくせ、康平の父親をころりと死なせ、借金まみれの康平を自己破産させ、嫁と別れさせ、マグロ漁船に乗せる。紗枝の婚約者も銃弾に倒す。そして人生の路頭に迷ったところで、ふたりをもういちど故郷に戻して、それでハッピーエンドもへったくれもあるか。故郷は社会のお荷物を収容するブタ箱ではない。包容力があることは認める。しかし、東京が光で、北海道が陰で、でも東京にとってのユートピアたれというのは、都合がよすぎる。
北海道に限ったことではないが、ちょっとでも商圏がある地方都市は、いまや大きな資本の力に屈している。地元の資本は経済の破綻で次々と倒産し、東京の巨大資本が支店を作る。雇用を守っているつもりかもしれないが、売り上げは東京にすっかり持っていかれる。今作にしても、東宝とTBSが北海道を見世物小屋に押し込んでしまった。
ああ、批判ばかりではいけない。少しだけいいところも書こう。故郷の問題を除けば、冗長だがヘンテコな作品でもない。友人の結婚式でばったり出くわしたふたりの居所のなさなど、いい演出だった。最愛の人だからといって結ばれることのないもどかしさはドラマだ。どうして死人が出るほど人生をこじらせないといけなかったのかは疑問だが。
ちなみにハナミズキアメリヤマボウシとも言われる外来種。ワシントンに桜を贈ったお返しにもらったものだそうだ。北限は東北地方という噂も。よくこんな企画で映画を作れたな。

おどろいたこと

池脇千鶴さっぽろシネマフェスティバル

え。なにこれ。すごすぎる。一日中ちいちゃんだけ見てていいんですよ。そりゃ自宅でDVDでもできますけど、スクリーンですよ。あああ、ジョゼかあいい。んぁーーーー。ジョゼと若菜!
なんでこんなにすごいイベントを、年末に札幌でやるの。日帰りでも行きたい。しかしこの時期の飛行機は片道3万円。いやいや、人事異動でもないと、そんな無茶できない。きっと事例は今週末。それまでに上司から呼び出されるかどうか。天命を待つ。いやしかし、わが故郷は幸せである。

産経新聞のテーマ川柳、今週は

お題が「公明党」ですよ。かの組織について、じつに13句が掲載。民主党代表戦の朝に、かっ飛ばします。キレの悪いのもありますが、まずこのお題にした編集者を称えたい。会社の先輩に見せたら、3秒でコピーを命じられた。近くにホンモノがいなくて、ほんとによかったと思う。

日野原重明カップ

それにしても、いちばんやられたのはこれ。60歳以上の野球大会に、世界中から24チームが集まった模様。日野原先生、始球式します。そして、そのTシャツは白寿記念に2,000円で販売中!

Xリーグがつまらなかった

最近、会社最寄の駅で毎朝、熱いのに大声を出してアメフトの試合に呼び込む関係者たちを見てきた。この酷暑である。大変なことをしているなと同情するとともに、チラシに割引がついていたので、興味本位でスタジアムに行ってみた。Xリーグの今季開幕戦である。
アメリカンフットボールの知識が皆無なので、無知ゆえのルールの分からなさはともかくとして、BSで見たアメリカの試合のようなわけにはいかないようだ。ボールをやたらと落とすとか、遠投しないとかいうのは、ただの玉転がしだった日本サッカーと同じ系譜なので、とやかく言うまい。しかし、残り10秒でダラダラとクォーターが終わるのを待つのはいかがなものか。負けているチームはそれで満足するのか。10秒を頑張れないぐらい力尽きているのか。その程度か。
選手のテクニカルな問題はこのぐらいにして、いっそう問題にしたいのは、応援のためのチアガールたちだ。この子たちはひどい。とてもよく練習している。アメリカナイズされた素晴らしい所作である。ただし、応援に関しては、下手というより、意味がない。あれもアメリカなのか。
偶然にも、防戦一方のチームの側の席にしたが、応援は「レッツ・ゴー・ディフェンス」しかない。それしか台詞がない。僅差でも大差でも、陽気に踊って「レッツ・ゴー・ディフェンス」と言う。それ以外はない。相手に点が入っても、陽気に踊って、「レッツ・ゴー・ディフェンス」。気が狂っている。
そのときの状況が分からないのだろうか。フットボールのためのチアリーダーなのだから、ルールは知っていないと意味がない。誰がどんな動きをしたからいまがあって、どうすればいいのか、誰を応援すればいいのかは、分かるはずだ。分からないなら、せめてもっと脱げ。その状況に応じた応援があるはずなのに、30点差あって、残り10分をイノセントに応援するのか。
バカだ。即答するバカ (新潮新書)という本があるが、応援が感情抜きの単純労働と化している。いつの日か、そんなロボットに毒される日が来るのだろうか。その日の前に、せめて人間を3Dのビデオに替えてほしい。あんなのはビデオでいい。あれが資本主義なら、いつでも共産主義者になれると思う。

老人のための映画館講座

オカンの嫁入り』を観てきた。驚くべき年齢層の高さ。ほとんど年金世代。たしかにほかの作品に比べれば年配向きではあったが、意外であった。
ちなみに作品は、小津の脱構築とでも言うべきか。小津と言えば、父親(=笠智衆)の葛藤と娘(=原節子)の葛藤を想像するが、今作では、前者が娘に、後者が母親になっている。そして母親が嫁ぐとき、娘もまた大人になるのが現代らしい。親子がふたりして子供っぽいところも。
ただ、どこにフォーカスを置くのかが明確でない部分があって、ストーリーがねじれた感じがした。主人公は娘だが、主語が娘で正しいのがおぼつかない場面も。その分だけ、娘の心の変化が捉えにくい。
さて本題に行こう。
高校生だらけの劇場もうるさいので気をつけなくてはならないが、彼らの場合、本編が面白くなるとだいたい静かになる。なので、とくに注意したこともないし、刺されたこともない。
しかし老人は厄介である。彼らは、本編中のほうがけたたましい。何度か注意したことがあるが、今日は老人だらけということもあり、目に余る動作が多かった。
きっと、映画館でどうすごしたらいいのか分からないのだろう。そう思うことにして、ここに、老人向けハウツーを記しておく。これだけ守れば、お行儀よく映画を観られて、誰も不快にならず、作品に集中できる。

劇場が暗転するまでに席に着きましょう

暗くなってから、近くの客に「あなたの席は何番ですか」などと尋ねないようにしましょう。座席表は劇場の入り口にあります。もしもの場合はそれを見てから入場しましょう。

帽子は取りましょう

帽子は日差しのあるところだけで十分です。後ろの席の視界をできるだけ広く保ちましょう。また、本編が終わっても、すぐに帽子をかぶる必要はありません。まるでどこかの布教活動みたいです。

携帯電話の電源を切りましょう

この常識を老人が守れない理由が分からないと思ったのですが、どうやら、電源の切り方を知らないようです。前日に練習してきましょう。マナーモードもやめましょう。老人は電話が着たら、出ますから。

食べたいものは事前に取り出しましょう

本編が始まってからカバンのお菓子を出し始めるのも老人の特徴ですが、うるさいです。とくにお菓子のパッケージに使われているビニールは、音が大きく、とても不快です。あらかじめひざの上に置く、袋を開けておく、というぐらいのことはしましょう。個包装してあるものは控えましょう。

草加せんべいを食べないでください

ただでさえバリバリとうるさいのに、入れ歯だとなお響きます。

いびきや寝言はしないでください

寝るのは自由です。ただ、静かにしてください。いびきをかいたり、意味なく「うわぁ」とか言わないでください。健康ランドではありませんよ。

しゃべらないでください

次の展開を話し合うのがおばさん、年配の役者が出てくると「あの人も病気してねぇ」とささやくのが老人です。どちらもやめてください。

スタッフロールになった瞬間に席を立たないでください

家に帰るまでが遠足、映倫マークが出るまでが映画です。あなたを楽しませてくれたスタッフの名前が出るのです。感謝しましょう。

できれば平日にどうぞ

毎日が日曜日でしたら、できれば平日にお楽しみください。土日は、休みの取れない労働者に見せてあげてください。無理は申しませんが。
それでは、また映画館でお会いしましょう。

このくにのかたちをおもう

夏休みを終えて戻ってきた。帰省した札幌は、帰省した途端に常識外の残暑に見舞われ、なんのための休暇だったのか疑問であった。父親は自動車を走行中に、逆走する軽自動車にぶつかりそうになったそうだ。その運転手は逮捕され、飼い猫が死んでむしゃくしゃしていたと供述しているらしい。なぜ猫を追ってさっさと死ななかったのか。その程度の絶望に付き合っている暇はない。国家予算に無駄が生じる。
それにしても、また総理大臣が代わるんだろうか。バカもほどほどにしてほしいが、もはやそれは正論ではない。経済よ、お願いだから、この国の政治にこだわらず、勝手に動いておくれ。この国の政治になにかを求めることは間違っている。端的に言えば、なにも作戦はない。
経済が勝手にしてくれるなら、政治はなにをしても文句は言われまい。あの政権政党はなにをされているのだろう。総理は代表選挙に落選したら、現状の政策を継続すべく、離党して新しい連立を作ってもいいのではないか。本気なら、ではあるが。
ちなみに北海道に滞在して、少なからず、北海道経済を立て直すヒントを見つけた。それは本気になることだった。北海道民が、北海道民の手によって、本気で北海道を運営する覚悟を決めること以外に、方法はない。そのために不便になることがあっても、仕方がなかろう。覚悟があれば、なんとでもなる。そのことにあと何年経てば気がつくのだろう。
ところで、いまこれを読んでいる。

軽いのでいいなと思うぐらいで買った本だが、これは教科書だ。前半をもうすぐ読みきるたが、もういちど読み直して、ノートにまとめないと、「いま」が分からない。いままでふと疑問に思ったあらゆることが、ポストモダンによって明らかになる。それはただの痛快でなく、なんとかしなくてはいけないことばかりだ。しかし、闘いだ。資本主義に組み込まれるととやかくできることが少ないかもしれないが、できないわけではなかろう。
ただし、簡単なのは学生だ。この本でゼミを開いて知見を深めることを祈ろう。わたしも動こう。

映画『カラフル』は愛について語りき

(物語の核心に触れますので、観ていない方は読まないほうがいいです)
人はいつ大人になるのだろう。大人になるためには、何が必要なのだろう。大人っぽい子供や、ませた子供は、大人なのだろうか。大人は、大人なのに、どうして自分の子供を育てられなかったり、自ら命を絶ったりしてしまうのだろう。
15歳の小林真は、自ら命を絶つ。しかし肉体は生かされ、そこに、大罪を犯したというひとつの魂が転がり込む。その肉体で生きるという「修行」を経なければ、輪廻の過程からはずされて、二度とこの世に戻って来れなくなるらしい。「修行」に成功すれば、小林真の肉体から魂は抜け出て、輪廻の過程に戻ることができる。小林真は2度死ぬ。ガイド役のプラプラからそう聞かされていた。
かくして「小林真」になった魂は、かつての「自分」がどんなだったかを、生きるなかで感じて、「自分」をつくっていく羽目になる。友達のいない小林真は、家族と接する以外に「自分」を発見することができないが、その家族にも、家族たらんとする演技を感じて、落ち着くことができない。
しかし、疎外感こそ、自我の発見へのプロセスだった。家族を疎ましく思う自分、しつこく付きまとう佐野さんを嫌うけれど、なにか見透かされているような気がする自分、大好きなひろかちゃんが知らない大人に身体を売るのを嫌な自分。あるいは、いままで話したことがなかった早乙女君が優しくしてくれて、気が合って、友達になって嬉しい自分。そのすべてが思春期そのものだった。
やがて気付く。かつての小林真が自殺を図って、生き返ってから、崩れかけていた家族の再生が始まっていて、誰もが自分のために必死になってくれていたことに。どうしてこんなに必死なんだろう。どうして僕はもっと素直になれないんだろう。その一方で、初めてできた友だちとの約束を、どうしても破りたくないという気持ちにも気付いた。もうすぐ死んでしまうのに。死にたくなんかない。
「死にたくなんかない」。その気持ちを取り戻させるために、魂はこの世に戻ってきたのだった。魂は、あの日、自ら命を絶った小林真そのものだった。
これは「愛」についての映画だ。人は誰でも社会の一部を為し、社会に生かされ、社会を生かしている。そのパーツのひとつひとつは、愛によって結合している。受け取るばかりだった愛に気付き、悩んで悩んで、やがて与える愛を覚えたとき、人は大人になるのだろう。そして人は生きていくのだろう。
僕が子供のころは、早乙女君みたいな少年ばかりだった。いまどき東京にあんな子供がいるのだろうかと思うが、どちらかというと、原監督の願望がこめられているのではないか。彼のような中学生でいい。大人になった振りをしなくていい。分からないことは、分からないままでいい。やがて分かるから。生き急いで大人になっても、本当の大人になれはしないんだと。だから、早乙女君に現代社会の闇を持ち込まない。
そして女の子は、いつも男の子よりも少し早く大人っぽくなる。悩める小林をなんとかしたいと思う佐野さんは、ちょっぴり大人だ。一方で、着飾ることに夢中になって愛のごときものを売るひろかちゃんは、大人になった振りをしている。監督は、ひろかちゃんに、自分を見つめなおして絶望するチャンスを与える。ひろかちゃんが自分を嫌になって、悩んでくれてよかった。そして「それでいいんだよ」と諭す小林は、ちょっぴり大人だった。
この作品を、アニメでなく実写で撮ってもよいのではないかという声もあるようだけれど、実写であんなに説教臭かったら、ちょっと見ていられない。アニメだからこそ、ストレートに心に収まることもある。「アニメができること」でなく「アニメがすべきこと」に徹した作品だと思う。
キャストが面白かった。男子役は本物の少年で、女子は大人が演じている。それが、成長のスピードのようでもあり、監督の少年へのシンパシーのようでもある。南明奈が好演している。そして宮崎あおいに、あえていままでしなかっただろう役どころを与えることで、双方が引き立った。高橋克実麻生久美子は達者だ。
曇天模様の青春は、いつも清清しい。ボロボロに泣かされた。ぜひいまの中学生に観てもらいたいし、いっそのこと、僕よりも年下の人たちすべてに観てもらいたい。しかし、宣伝はむしろ、いまの大人たちに向けて発信されている。もしかしたら、自分たちが本当に大人なのか、自分自身とよく向き合ってほしいというメッセージなのかもしれない。だとしたら、どうやら重い課題を受け取ってしまったようだ。