『ハナミズキ』、故郷、憧れ

東京は、憧れの場所だろうか。輝かしく見えるだろうか。千葉で暮らし始めてもうすぐ5年半。アクセスのよさと、終電が遅いのと、赤提灯がたくさんあることと、寄席が毎日あることと、水道が凍結しないのはいいことだ。しかし魅力の多くが、必ずしも近代的なものでないことは事実だろう。もっとも、僕が特殊なのかもしれないけれど。
どちらかというと、人間関係に疲れることのほうが多かろう。見栄っ張り、八方美人、建前、腹黒い、ずるい、自分勝手、うそつき、あしらい上手、思わせぶり。ひとりでも多くの夢が、意味のないことによって潰れてしまわないことを祈りたい。
さて、『ハナミズキ』の主人公・紗枝は、道東の漁村に暮らす高校生。釧路の進学校に通い、早稲田大学を目指す。ある事故で推薦を取ることはできなくても、塾に通って、やっぱり早稲田大学を目指す。そして合格する。
なぜ早稲田大学なのかは、語られない。優秀な人材を輩出している大学であることは百も承知だが、そんな大学はほかにもいくらでもある。しかも英語を勉強するために進学するらしい。それだけ憧れられるなにかがあることを、映画は示す。
それは虚構でしかない。たとえば北海道の経済は10年以上も停滞しているので、収入がないから脱出するというなら分かる。実際、紗枝の恋人・康平がそうだ。しかし、東京の私大に通うのに収入の問題を持ち出すのはおかしい。
僕が北海道にいるころの話だが、あまり道外に進学したいと思う人が多くなかった。道内の大学には入れるなら、学部の変更も厭わない学生は多かった。僕はそういう曲げ方をできなかったので、ついつい道外にやって来てしまったわけだが。それも林学だったから道内にいられなかっただけで、語学ならいくらか大学はあるだろう。
ここまで詳細に書かなくてもよかったが、つまり、そんなことはどうでもいい作品なのだ。あくまで東京の人間の妄想でしかない。北海道の広い大地から純粋な少女が憧れの東京に来て、都会の荒波のなかで頑張って、ニューヨークに行っちゃうことが描ければよかったに過ぎない。東京が憧れる北海道を、憧れる部分だけ想像して記号化する。だから、大事な台詞は標準語だし、方言を「北海道弁」という、地元の人間が使用しない単語によって阻害化する。
そのくせ、康平の父親をころりと死なせ、借金まみれの康平を自己破産させ、嫁と別れさせ、マグロ漁船に乗せる。紗枝の婚約者も銃弾に倒す。そして人生の路頭に迷ったところで、ふたりをもういちど故郷に戻して、それでハッピーエンドもへったくれもあるか。故郷は社会のお荷物を収容するブタ箱ではない。包容力があることは認める。しかし、東京が光で、北海道が陰で、でも東京にとってのユートピアたれというのは、都合がよすぎる。
北海道に限ったことではないが、ちょっとでも商圏がある地方都市は、いまや大きな資本の力に屈している。地元の資本は経済の破綻で次々と倒産し、東京の巨大資本が支店を作る。雇用を守っているつもりかもしれないが、売り上げは東京にすっかり持っていかれる。今作にしても、東宝とTBSが北海道を見世物小屋に押し込んでしまった。
ああ、批判ばかりではいけない。少しだけいいところも書こう。故郷の問題を除けば、冗長だがヘンテコな作品でもない。友人の結婚式でばったり出くわしたふたりの居所のなさなど、いい演出だった。最愛の人だからといって結ばれることのないもどかしさはドラマだ。どうして死人が出るほど人生をこじらせないといけなかったのかは疑問だが。
ちなみにハナミズキアメリヤマボウシとも言われる外来種。ワシントンに桜を贈ったお返しにもらったものだそうだ。北限は東北地方という噂も。よくこんな企画で映画を作れたな。