映画『カラフル』は愛について語りき

(物語の核心に触れますので、観ていない方は読まないほうがいいです)
人はいつ大人になるのだろう。大人になるためには、何が必要なのだろう。大人っぽい子供や、ませた子供は、大人なのだろうか。大人は、大人なのに、どうして自分の子供を育てられなかったり、自ら命を絶ったりしてしまうのだろう。
15歳の小林真は、自ら命を絶つ。しかし肉体は生かされ、そこに、大罪を犯したというひとつの魂が転がり込む。その肉体で生きるという「修行」を経なければ、輪廻の過程からはずされて、二度とこの世に戻って来れなくなるらしい。「修行」に成功すれば、小林真の肉体から魂は抜け出て、輪廻の過程に戻ることができる。小林真は2度死ぬ。ガイド役のプラプラからそう聞かされていた。
かくして「小林真」になった魂は、かつての「自分」がどんなだったかを、生きるなかで感じて、「自分」をつくっていく羽目になる。友達のいない小林真は、家族と接する以外に「自分」を発見することができないが、その家族にも、家族たらんとする演技を感じて、落ち着くことができない。
しかし、疎外感こそ、自我の発見へのプロセスだった。家族を疎ましく思う自分、しつこく付きまとう佐野さんを嫌うけれど、なにか見透かされているような気がする自分、大好きなひろかちゃんが知らない大人に身体を売るのを嫌な自分。あるいは、いままで話したことがなかった早乙女君が優しくしてくれて、気が合って、友達になって嬉しい自分。そのすべてが思春期そのものだった。
やがて気付く。かつての小林真が自殺を図って、生き返ってから、崩れかけていた家族の再生が始まっていて、誰もが自分のために必死になってくれていたことに。どうしてこんなに必死なんだろう。どうして僕はもっと素直になれないんだろう。その一方で、初めてできた友だちとの約束を、どうしても破りたくないという気持ちにも気付いた。もうすぐ死んでしまうのに。死にたくなんかない。
「死にたくなんかない」。その気持ちを取り戻させるために、魂はこの世に戻ってきたのだった。魂は、あの日、自ら命を絶った小林真そのものだった。
これは「愛」についての映画だ。人は誰でも社会の一部を為し、社会に生かされ、社会を生かしている。そのパーツのひとつひとつは、愛によって結合している。受け取るばかりだった愛に気付き、悩んで悩んで、やがて与える愛を覚えたとき、人は大人になるのだろう。そして人は生きていくのだろう。
僕が子供のころは、早乙女君みたいな少年ばかりだった。いまどき東京にあんな子供がいるのだろうかと思うが、どちらかというと、原監督の願望がこめられているのではないか。彼のような中学生でいい。大人になった振りをしなくていい。分からないことは、分からないままでいい。やがて分かるから。生き急いで大人になっても、本当の大人になれはしないんだと。だから、早乙女君に現代社会の闇を持ち込まない。
そして女の子は、いつも男の子よりも少し早く大人っぽくなる。悩める小林をなんとかしたいと思う佐野さんは、ちょっぴり大人だ。一方で、着飾ることに夢中になって愛のごときものを売るひろかちゃんは、大人になった振りをしている。監督は、ひろかちゃんに、自分を見つめなおして絶望するチャンスを与える。ひろかちゃんが自分を嫌になって、悩んでくれてよかった。そして「それでいいんだよ」と諭す小林は、ちょっぴり大人だった。
この作品を、アニメでなく実写で撮ってもよいのではないかという声もあるようだけれど、実写であんなに説教臭かったら、ちょっと見ていられない。アニメだからこそ、ストレートに心に収まることもある。「アニメができること」でなく「アニメがすべきこと」に徹した作品だと思う。
キャストが面白かった。男子役は本物の少年で、女子は大人が演じている。それが、成長のスピードのようでもあり、監督の少年へのシンパシーのようでもある。南明奈が好演している。そして宮崎あおいに、あえていままでしなかっただろう役どころを与えることで、双方が引き立った。高橋克実麻生久美子は達者だ。
曇天模様の青春は、いつも清清しい。ボロボロに泣かされた。ぜひいまの中学生に観てもらいたいし、いっそのこと、僕よりも年下の人たちすべてに観てもらいたい。しかし、宣伝はむしろ、いまの大人たちに向けて発信されている。もしかしたら、自分たちが本当に大人なのか、自分自身とよく向き合ってほしいというメッセージなのかもしれない。だとしたら、どうやら重い課題を受け取ってしまったようだ。