予定調和の国民映画、だからこそいい 『ALWAYS 続・三丁目の夕日』

いわゆる「涙のカツアゲ」*1から2年。夕日町が帰ってきた。駄菓子屋の茶川(吉岡秀隆)は少年雑誌向けの小説を書きながら、淳之介(須賀健太)と貧しい暮らしをしていた。そこにふたたび淳之介の実父(小日向文世)が現れ、息子を連れ戻そうとする。それを嫌がる淳之介を見た茶川は、まっとうな生活のため、芥川賞を目指して純文学に復帰する。一方、向かいの鈴木オートでは、成城に住む親戚の子を預かることになった。
前作は、金の卵として上京した六ちゃん(堀北真希)とそれを包み込む鈴木家を中心に描かれ、建設中の東京タワーのように、前進する社会を描き出していた。一方、その翌年の同じ場所を舞台にした今作は、茶川が淳之介やヒロミ(小雪)と家庭を築くまでの様子を中心に据えてあるが、それは誰ひとり血のつながらない擬似家族だ。近代化とはおよそ縁がない、社会的に影の存在である。
世は岩戸景気や皇太子御成婚で沸いているというのに、夕日町のひとびとにそれを示すものがない。むしろ、茶川の物語に寄り添うように、忘れようとしてきた過去を振り返る場面や、近代化が成功ばかりでないことを示す場面がちりばめられている。鈴木オートの社長(堤真一)は戦友会で思い出に浸り、トモエ(薬師丸ひろ子)も戦争で引き裂かれたかつての恋人と再会。成城に住む親戚は事業に失敗し、六ちゃんの幼馴染はコック修行を投げ出してよくない仕事に手を出している。茶川が書いた小説にしても。
しかし、どんなに明るからぬ要素が含まれていても、明らかに先の読めるベタな展開であっても、この作品には付き合える。ハッピーエンドの予定調和で終わることを、すべての観客が知っている。観る前から知っている。信じて疑わない。大事な台詞は少なくていい。もう、スクリーンと観客がすべてを共有してしまっているのだから。そして観客は、鈴木オートでの宴会の客のような振りをして、よかったよかったと鼻をすするのみなのだ。
これは国民の映画だと思う。いまどき古い言葉と思うなかれ。なぜその国の国民なのかを問われて、戸籍以外の事情で説明しなければならないとしたら、生まれてこの方、この国での経験値で飯を食っているからと答える。しかしそれだけでは心もとない。極端だが、海の向こうの国に占領されても文句も言えない。その点、昭和33、34年頃の「夕日の記憶」は、ひとりひとりの経験値を超越している。どういうわけか懐かしく、そのぬるま湯が心地いい。その感覚が、国民たらしめる。
ところでこの作品、35年で続編をつくるのは不可能になった。子供たちが大きくなりすぎた。もともとそれを覚悟でつくったはずで、ちょっと詰め込みすぎている気がしないでもない。もっとも僕は六ちゃんが太陽であればなんら異存ないのだけれど。
ただ、親戚の娘・美加ちゃん(小池彩夢)が夕日町を離れる際、最後に言った台詞「一平くんのお嫁さんになってあげる」が気になる。まさか一平が主役の作品を練り上げるつもりでは。それも悪くない。山崎貴監督は雑誌のインタビューで「39年なら」というけれど、それは一平の青春物語だ。たぶんそれぐらいが「夕日の記憶」の限界点になるだろう。

*1:みうらじゅんみうらじゅんの映画批評大全』より