重さと軽さの絶妙な調和 『紙屋悦子の青春』

ああこの作風をもう観られないんだと、暗転して、まるで初めて知ったかのように悲しくなりました。それ以上の感想はないと思う。
今作も『父と暮せば』のように、舞台演劇の風合いが強く、キャストもカット数もかなり抑えてつくられています。カット数はともあれ、撮影所のセットでがちがちに製作した映画って、最近は本当に見つけづらいなあと思いますね。あの作品とこの作品は同じ家屋のセットを使用している、なんてマニアックな発見もできません。
フィクションの自然体はすべて「作為的な自然」ですから、嘘っぱちです。雑味を排除して、表現したいように作り上げるということが使命としてあって、そのうえでの自然体だということを忘れてはなりません。ですから、デジタルビデオカメラを片手に街に繰り出すことには、表現不全という危険をともないます。
黒木監督が古い人間だということを差し引いても、今回の原作では、セットでの撮影というのがなんとも相応しい。そして、限られた撮影場所のなかで繰り広げられる演劇は、ストーリーを非常に理解しやすく、決して行動範囲が広かったと思えない主人公・悦子(原田知世)と同じ目線でスクリーンと対話できます。携帯電話で無限に広がったわれわれの行動範囲とはまるで違う。彼女には、駅での勤労と家までの道のり、家のなか、裏山と桜の花しかないのです。しかしそのなかにも喜怒哀楽はある。それを共有することが、この作品を愉しむために必要なのです。
舞台演劇的な世界のなか、数少ないキャストが非常にコミカルに振舞います。脚本と演出の良さが随所に見られます。つねづね九州男児は女性がつくったなあと思うのですが、九州出身者の監督が作り上げた兄(小林薫)とその妻(本上まなみ)の関係には、泥臭さと可笑しさがあります。ほかにもふたりの少尉、あるいは悦子と長与(永瀬正敏)といった組み合わせの二人芝居がたいへん魅力的です。
これは推測ですが、とくに今回は、前作、前々作といったいわゆる「三部作」とは別に位置づけられています。もっとも世間がそう見ているだけのことですが、監督自身、なにか大きな仕事を終えた後のような、肩の力の抜けた感じがあるように思えます。そのことで、テーマの重さがありながらも、ふわっと軽い風のような作品になったではないかと。
さて、作品の魅力に一役買っているのは、カメラワークでしょう。なんとも分かりやすい。役者たちを捉える、ということを使命として、シンプルなカット構図を用いているのがいい。カメラマンを信頼できるから、作品に安心してのめりこめます。
なお、公式サイトの掲載されている「ストーリー」は、作品のほぼ全体について説明しています。ストーリー展開の面白さではなく、映画の面白さを楽しみにして観たらいい。製作者たちの自信が表れています。