外地に生まれて

故郷はとても大事だと思う。故郷は自分という人間がどうあるのかを決定づける座標軸になる。ちょうどいま、鈴木邦男愛国者は信用できるか (講談社現代新書)』を読んでいて、自分を愛し、家族と社会を愛し、故郷を愛してこそ、愛国者になれるということを、彼は述べている。たしか柳田國男も同様のことを述べていたはずで、僕もまたそう思う。だからこそ、故郷は大事だ。
だけれども、常々思うことは、僕の故郷が外地・北海道だということだ。それも札幌だ。内地の近世を共有していないばかりか、両親ともに外地の出身ときている。風来坊の一族なのだ。外地の人間にとっても故郷はあるが、祖国という言葉にはなんとなくピンとこない。ほかのどこの国の人間でもないことは重々承知しているし、もっともしっくりくるのが日本なのも、身体がそう応えているが、しかし完璧ではない。
山田洋次は少年期を満州で過ごしていて、なんとなく似ていると感じることがある。小林政広は、彼の作品はモテたのに、彼自身はモテないと書いている*1。もっと彼自身が評価されるような作品をほしい、というメッセージなのだが、もしかすると、あれだけ評価の高い作品群にも、山田自身どこか納得しないものを感じているのではないか。それはつまり、彼には故郷がなくて、日本という国のなかに故郷をもち、祖国にしようという試みが、いまだ完成していないということではないだろうかと。
であるならば、彼がモテるようになるのは、祖国を獲得できたときからであって、その時は永遠に訪れない。あの大監督がそうならば、僕もそういうことになるのだ。たとえばいつか日本が大帝国となって世界中を領土にするならば、相対的に祖国を獲得できるかもしれないけれど、さすがに興味がない。外地のものにとって祖国は、探すものだと思う。
近年の日本映画はとても面白いし、作品数もどんどん増えている。外国への輸出ルートもかなり確立されてきた。もちろん僕自身も、だからこそ日本映画を多く観ているのだけれど、それと並行して、日本のさまざまなものを見たいという願望がどこかにある。僕が気に入る作品の多くには「故郷」があり、その匂いがある。
僕が数年にわたって紺野あさ美を応援してきたのも、彼女に同郷の匂いを感じたからだ。美人は3日で飽きる。そうでなかったのは、匂いのせいだった。匂いの行方を知りたい、それは祖国の匂いたりえるのか。我が問いの探求者として、彼女の存在はあった。
あるいは駒大苫小牧高校が、たいへんな野球をしている。もう目が離せない。彼らが2年前、初めて優勝したときは、素直に感激した。優勝旗が外地の手に渡ったのだった。しかしそれは、日本という国にとって喜ばしいことだったのだろうか。少なくとも僕には喜ばしい。北海道という土地が、日本の一人前になるためには、必要だと思うからだ。今年は東京が北海道に手を焼いている。そこがまた喜ばしい。この感情の分だけ、山田洋次よりも幸運なのかもしれない。