いまモダンの時代へ 『丘を越えて』

昭和初期の東京下町には、まだ江戸の生活そのものを送る人びとがあった。そのひとり、葉子(池脇千鶴)は女学校を出て、就職活動中。友人の紹介で文藝春秋社の面接に漕ぎ着けた。あいにくの不景気で社員の募集はなかったが、社長の菊池寛西田敏行)は私設秘書として彼女を迎える。経営者というより文化人であった菊池は、自らの雑誌に寄稿する一方で、友人から届けられた手紙に感激して私財を投じるなど、人情味溢れる性格の持ち主で、葉子は人間としての菊地の魅力に気付く。と同時に、会社で不良青年扱いされる馬海松(西島秀俊)という朝鮮の青年のアプローチを受け、ふたりの間で揺れ動く。
葉子の家がある竜泉寺町は実在した街だが、こんなにも近世の生活を多く残していたものなのだろうか。序盤、竜泉寺町のシーンが続くが、風景はまさに江戸時代である。ただし男性の髪型から近世でないことが分かり、「就職」という言葉が自然に登場したり、ラジオが流れたりすることから、明治でないことが分かってくる。しかし一般に想像する昭和の姿とかなりかけ離れているので、多少の混乱を起こす。その感覚を新鮮ともいう。少なくとも『母べえ』の世界と数年の差しかないことが信じがたい。
モダンとはなにかを追及する菊池にとって、「心は江戸」の葉子はある意味で刺激的だった。ゴルフやベースボールといった西洋的なものを取り込むだけがモダンではない。自分たちの生活のなかに溶け込んでこそモダンであると菊池は主張する。あるいは馬海松は、日本人ならどんな人でも上を向いて前に進んでいける。それがモダンの真髄で、日本はいち早くそれに成功したと言う。自らの出自にしても、出会って日の浅い葉子につい話してしまう。葉子には大の大人を真っ裸にしてしまう魅力がある。
そのモダンについては、とても興味深い。おそらくふたりが述べる状況は、その後数十年にわたってこの国に続いている。作品の終盤に満州事変が起こり、そこからおよそ10年は暗い時代と呼ぶべきだろうが、戦後の復興からバブルごろまでは、ふたたびモダンの時代と言えよう。夢をもって前に進んでいける時代、ギブミーチョコレートからコンピュータに至るまで、アメリカからの舶来品を生活にぐいぐいと取り込んできたものの、我が国特有の生活として、地に足が着いていたかどうか。近年、その問題が問われている。
いま菊池寛が生きていたら、これまでの数十年はモダニゼーションで、これからがモダンの幕開けだというかもしれない。つまり、新しいものを取り込むことに必死な時代が終わり、我が国らしい生活のためにそれらを取捨選択し、活用する時代が訪れようとしている。その大きな時代の動きのなかで、菊池寛があらためて注目されているということだろうか。葉子は生活を擬人化した存在かもしれない。菊池は生活に恋し、馬海松も生活を我が物にしようと目論む。やがて生活は家に戻り、しかし自立の道へと歩き出す。
主なキャストは誰も魅力的だが、やはりここは池脇千鶴を語らせていただきたい。演技のよさはほかの作品でも評価することができるが、この作品においては、彼女の使い方のよさが光る。特殊な人物を演じることにとても器用な彼女だが、今作のような普通の女性を演じると、その深さが際立つ。母親と喋るちゃきちゃきした葉子と、菊池と添い寝する母親のような葉子、馬海松に惚れちゃってどうしようもない葉子。そのすべてのモードを合わせて、葉子なのだ。ほとんど主役という存在感に、たいへん満足している。