信じられないけれど頷けるなにか 『受験のシンデレラ』

真紀(寺島咲)は高校を中退して運送会社に勤める毎日。母親(浅田美代子)は働かず真紀の給料で遊んで暮らす。父親は家を出て行った。真紀は日給で貧しい家計を支えていた。ある日、スーパーで裕福さを持て余したようないらだった男に遭遇する。その男、五十嵐(豊原功補)は東大合格率90%を誇る名門塾の名物講師だった。荒稼ぎする彼には、しかし人生の転機が訪れていた。余命1年半の末期がん。やがて五十嵐は人生の最後を、真紀を東大に入れることに賭すことに決めた。
精神科医和田秀樹の初監督作は、受験がテーマ。受験で引き裂かれる男女の物語や、親の物語はあったが、ここまで勉強そのものをストレートに題材にした作品は珍しい。テーマがそのまま監督のオリジナリティである。演出に少々の苛立ちを感じるものの、青春映画としての体裁を立派に保った。僕自身は受験にいい思い出がちっともない。浪人したらまた受験しないといけないから、滑り止めに進学したぐらいだ。それを後悔しているわけではないが、あのころ近くに和田秀樹がいたらどうなっていただろう。まあ、才能がなきゃしょうがないのだが。
所得の低い過程から高い学歴を生むことの難しさは、おそらく昔よりいま、そして将来ますます深刻なものになっていくに違いない。誰かが言うように、それが容易に予測できることが、希望の格差を生む。負のスパイラルだ。真紀の母親は99%の無神経と1%の愛情で、希望をもつことをあきらめるように告げる。それは普通の行動であるが、普通でありたくない部分でもある。その底辺から抜け出す物語を、寺島咲の清純さと、浅田美代子のヒールっぷりとで、観客が一丸となって見守ることになる。
しかしこの作品の最大の魅力は、脚本における学習のリアリティにある。受験をテーマにして、随所にコミカルさを持ち込んだ演出になるとは思わなかった。受験狂を周辺から笑うのならまだしも、受験生当事者の立場でのコメディタッチである。なかなか面白い脚本だと思う。それでいて、実際の参考書がずらりと登場し、さまざまな学習の要領が登場する。勉強は時間でなくて量。10分の復習が理解を7割にする。受験期でも12時には寝る。試験では解ける問題から解く。かつて受験生だった僕がいまなら納得できる教訓の数々だが、これを受験生にすべて分からせるのは難しい。当時の僕なら理解しなかった。そこを納得させるのが五十嵐という強烈なキャラクターだ。
その五十嵐が、彼を演じる豊原功補が、この作品のもうひとつの魅力である。豊原は、末期がん患者としての一面と、エリート講師としての一面、そして真紀を前にして洒落っ気のある一面とがうまく混ざり合っている。終盤の衰えの表現はお見事。寺島と豊原のコンビ以外に考えられないキャスティングと言える。
受験のリアリティとキャスティングが、高校を1ヶ月しか通っていないのに東大に合格するという信じがたい物語を納得させていく。信じられないけれど頷けるなにかがそこにある。