きれいごとではない、生きていくということ 『memo』

学校で、とても簡単な小テストが満足に解けない。解いているうちにペンを持つ手が震える。頭に描かれた言葉を書き留めずに入られない。テスト用紙を裏にして、つながりのない言葉を書きなぐる繭子(韓英恵)は、強迫性障害を抱え、カウンセリングを受けている。ある朝、目覚めると横におっさんがいた。失踪していた叔父(佐藤二朗)だった。奇妙な言動を続ける彼もまた、同じ悩みを抱えて生きているのだった。
潔癖を通り越して手を洗ってしまう人がいるとは聞いたことがあった。メモを取るという衝動ははじめて知ったが、かつて題材になったこともないのではないか。しかしこれは監督を務めた佐藤二朗の実話に基づいている。メモを取る強迫性障害は、彼自身なのだ。作品では主人公を高校生の少女に替え、生きづらさとともに、それでも生きていこうとする様子を描いている。
繭子のメモは常軌を逸している。つねに手元に紙とペンがなくてはいけない。テスト中ばかりでなく、掃除の途中にも急にトイレに走り、ポケットの紙切れに書く。バスのなかでは紙にうまく書けず、窓を曇らせて指で書く。体育の授業中に発作が起こると、紙のある場所までたどり着けず、インク代わりに指を噛んでしまうのだ。
カウンセラーは彼女に言う。闘ってはいけないと。治そうとするのではなく、受け入れ、上手に付き合うことが大事であると。しかし年頃の娘がこの病気とどう付き合うというのか。周囲を気にしてか、周囲が察してか、友達もいないし、学校ではほとんど喋らない。笑わない。
そんな彼女の生活を変えたのが、叔父さんだ。失踪中に長野で暮らしていたことや、強迫性障害であることなど、佐藤自身が強烈に投影されたキャラクターである。いわば、いまの佐藤が、あのころの佐藤に語りかけている構図なのだ。発作が起きないように間髪あけずに喋り続ける叔父さん。その発言にほとんど意味はない。繭子は疎ましく思ったが、次第に親近感を覚え、笑顔が現れる。叔父さんは、繭子の唯一の理解者となり、彼女の気持ちを軽くしていく。
しかしある日、叔父さんは繭子に「これからどんなにいやなことがあっても、それを睨みつけて生きていくんだぞ」と真顔で諭し、自殺してしまう。生きていくことに前向きになれた繭子の対照的に、叔父さんは悩みの重さに耐えかねてしまった。佐藤自身の実話に基づく作品であるだけに、佐藤の生きることに対する苦悩がリアルに伝わってきてしまう。面白いことを考えられる人は、内面では生真面目だったりストイックだったりすることがあるが、お話としてきれいごとでは終えられなかったなんともいえない部分が、作品に息を吹き込んだ。