ストイックであるが故の豊かな表現 『明日への遺言』

昭和20年5月、名古屋は米軍機による無差別爆撃により、多くの死傷者を出した。その際銃撃を受けた米軍機からは、幾人かのパイロットがパラシュートで降下し、日本軍に逮捕され、処刑された。それを指揮した岡田資(藤田まこと)をはじめとする東海軍の元軍人たちは、終戦後、連合国軍の裁判にかけられた。岡田は自ら法戦と名づけた法廷闘争で、国際法に背く無差別爆撃を主張し、また司令官である自分こそすべての責を負うべきと発言する。
戦争をテーマにした作品であると同時に、裁判の映画でもある。むしろ後者の比重が大きい。というのも、作品の半分以上のシーンは法廷で撮影され、その合間にスガモプリズンの様子がすこし描かれるのみ。古いフィルム映像のほかは戦争のシーンはなく、とことんストイックに戦争裁判を描いているのである。
多くの面においてストイックな作品だが、なにより主人公・岡田の生き方がストイックだ。軍法務局の連中が責任を逃れようと必死になるのに対し、岡田はそれを批判し、事実を明らかにし、それがゆえに絞首刑になるのならそれも結構。しかし部下たちは若く、死なせたくない、生きる希望を持たせたい。残る家族にもねぎらいを忘れない。その姿勢は、弁護人だけでなく、検察、裁判委員の心を打つものだった。
若輩者の補足で失礼するが、丸山眞男超国家主義は、先の戦争において、結局のところ誰も責任を取れるような体制でなかったこと、そういう社会で成り立つ国家なのだということを書いたものだと理解している。戦犯の処刑は、法の下に有罪か無罪かということを考える以上に、どこか禊のような意味合いの濃いものだったのかもしれない。しかし岡田はそこに歯向かい、責任の所在について言及する。
岡田の覚悟、裁判委員らを感激させる様子は、淡々と進む裁判のなかで、藤田まことの凛とした姿勢や発声、台詞によって絶妙に表現されている。傍聴席とは言葉を交わすことが許されないが、藤田はじめとする出演者が台詞を超越した演技を見せる。もはやほかに説明不要とは思いつつ、そっと補足する妻・温子(富司純子)のナレーションが大衆たる観客との橋渡しをしている。ただ論戦しているだけのシーン連続で、あれだけ観客に多くの想像を掻き立て、ストーリーを想像させられるとは、その徹底した脚本と演出にはまったく恐れ入る。
全体のナレーションは竹野内豊が担当しているが、はじめは誰なのかまったく分からなかった。本職のアナウンサーではないかと思うほど、発音がよく、聞き取りやすい。しかしそれだけでなく、それとなく感情を入れており、たいへん魅力的であった。とくに冒頭は戦争についての説明がたいへん長いが、緩急あるナレーションで観客をひきつける。やがて名古屋の映像になり、そこからスガモプリズンの岡田へとつながれる。編集の仕事もすばらしい。
褒めちぎってばかりだが、後半、絞首刑が決まった岡田は、裁判所の外で他の被告人と引き離され、護送される。そのときの風景が、直感的に現代風に見えたのは、たぶん電信柱がコンクリートだったためだろう。それまで美術面でも文句なしだったために、妙にそこが残念に思われた。もっともたいした問題でないことは書かねばなるまい。語り継ぐべき、骨のある作品である。