甘美な昭和懐古で終わらせない 『母べえ』

昭和15年支那事変は泥沼化し、日本中が徐々に暗い影のなかに佇もうとしていた。東京の野上家にも心配事があった。ドイツ文学者の父べえ(坂東三津五郎)の著書が検閲を通らなくなった。ある2月の寒い日、父べえは特高に連行されてしまう。父べえの無事を祈りながら、残された母べえ吉永小百合)、初べえ(志田未来)、照べえ(佐藤未来)だけの生活が始まった。幾日か経って、父べえを心配する教え子の山ちゃん(浅野忠信)が訪れ、以来、なにかと野上家を支えるようになる。
タイトルは『母べえ』だが、母親だけの物語というわけではない。原作が照べえ(実際とはすこし設定を変えているが)だけに、まず家族の物語であり、照べえから見た母べえの物語があり、逮捕されたまま帰ってこない父べえを想う物語がある。そこに、突然やってきた親戚や、父べえの妹、山ちゃんが加わり、それらが複合的に動くことで、たいへん重厚な作品に仕上がっている。
治安維持法違反という暗い拘留がきっかけになっているものの、作品は悪人を表に出してこない。隣組の人びとから蔑まれてもよさそうなものだが、職の口利きをしてくれるなど、逆に親切さを取り上げている。強いて言えば特高や父べえの師匠と言った、母べえを困らせ怒らせる人物も登場するが、立場上そうせざるを得ないという後ろめたさを抱えた設定で、彼らへのフォローを怠らない。初べえが学校に行きたくないとこぼすシーンがあるが、その理由は割りに些細なものとして捉えられ、あったかもしれないからかわれには触れられない。照べえが姉のそうした姿を知らなかっただけなのかもしれないが、おそらくそれらも含め、母べえは娘たちを優しく抱き抱える。
社会や世間があって、好きなように過ごせず、本当のことも言えずにいる登場人物たちは、これまで山田洋次監督が手がけてきた作品同様、現代に生きるわれわれの代弁者である。その一方で、言うべきことを言う、われわれの憧れも登場する。ひとりは父べえ。インテリらしく、思想に基づき国家に意見する。拘置所でも転向しようとせず、苛酷な環境のなか、逆に書物を家から取り寄せて研究にいそしむ。そしてもうひとりは奈良のおじさん(笑福亭鶴瓶)。親戚中から厄介払いされるおじさんだが、楽しいことをして生きていきたいというポリシーで世間と喧嘩し、警察に絞られる。そして人情深い。寅さん的存在だ。個人的には奈良のおじさんがこの作品でいちばん好きな人物だ。
さて、これまでの時代劇3部作に比べて、作品のリズムや空気の調和といったものが、格段にいい。監督にとって記憶のある時代だからこそ表現できるリアリティもあるだろう。ただ、それだけでない。すべての出演者が山田演出にはまったことが大きい。とくに若手や中堅クラスには注意を払わなければならないところだが、檀れいはもちろんとして、浅野忠信が山田映画に馴染んだことは注目に値する。その歯車ですべてがうまく回っている。
吉永小百合も、晩年の姿を含め、監督を非常に信頼して望んだ様子が伺える。彼女が主演の場合、その夫役がたいへん苦労するわけだが、ひと回り近く年下の三津五郎が違和感を大きく取り除いた。ただし浅野との対比をどう捉えるかは、観客の解釈に委ねられそう。そして照べえの佐藤未来がとてもいい。ストーリーテラーだからというだけでなく、みんなに可愛がられ、天真爛漫で、泣いたり照れたり、初べえに怒られたりする様子が、でしゃばらずとも生き生きとしている。
ラスト、優しくて強い母べえが、ひとりの女としての一面をのぞかせる。それは現代のシーンで、途中までは必要性がわからなかったが、最後の最後でざらっとした感触を観客に与える。そのとき観客は、辛さを含めた戦中の甘美な世界から引き離されていくのである。ただの思い出にさせない監督の狙いといえよう。