もうひとつの大阪物語 『子猫の涙』

昭和43年、メキシコオリンピック。ボクシングで銅メダルを獲得した森岡栄治武田真治)は、その後プロに転向するも成績芳しくなく、引退してからは無職でぶらぶらしていた。夜遊びと女癖が災いし、ひとり家計を支えるお母ちゃん(紺野まひる)の怒号が絶えない。そんな家庭で、治子(藤本七海)は育った。ある日、とうとうお母ちゃんが家を飛び出してしまう。それからしばらくたって栄治は、キャバクラで会った裕子(広末涼子)を家に連れてきた。
監督は『問題のない私たち』の森岡利行。そのことを知ったのは鑑賞後だが、彼が森岡栄治の甥だということも、同時に知った。前作がよかっただけにとうとう出た新作という形だが、実際に、彼の代表作として生きつづける作品になった。
最近流行の昭和の映画だが、ほかの作品とは一線を画す。懐かしむための昭和ではない。"栄ちゃん"が生きていた時代を映すためにある昭和なのだ。そして栄ちゃんが生きていた場所を映すための大阪でもある。ただし大阪という土地は、作品の雰囲気のみならず、栄ちゃんの人格が出来上がった場所という点でも重要な意味を持つ。市川準大阪物語』は漫才師の物語だったが、この作品は、森岡栄治の伝記であると同時に、彼を包み込む大阪の物語でもある。
作品は、丁寧すぎるほど丁寧につくられている。あれだけ長い時代のたくさんの出来事を、100分足らずで見せて、それでもゆったりとした感じが残るというのは、すばらしい腕前だと思う。鑑賞直後は、丁寧に見せすぎて、逆に見えないところもあるんじゃないかと感じたものだが、森岡監督にしか描けないと知ってからは、それを欠点とは思えなくなった。とにかく愛情に溢れている。それは栄ちゃんへの愛情であることはもちろん、治子や裕子への愛情でもある。現在の治子がバツイチだとあっさりナレーションで説明される。蛙の子は蛙、きれいな話とは違うリアリティにじーんとする。
この鎮魂歌のような作品を支えているのは、粒ぞろいのキャストの面々である。なんといっても藤本七海である。『大阪物語』に池脇千鶴がいたように、本作に彼女あり。役柄の設定上、池脇は中学3年、藤本は小学の高学年。どちらも甲斐性のない父親を抱える話だけに、『大阪物語』の若菜も、何年か前は、治子のように拗ねたり泣いたりしていたのだろうか。そんなふうにさえ思わせる。
ほかにも、たとえば広末涼子もいい。水商売姿を見て、似合うなあと感心してしまう。映画ではベストアクトではないか。宝生舞も治子役をすんなり引き継いで、違和感がない。ほか、上方芸人としては山崎邦正喜味こいしが出演しているが、いずれも当人の持ち味どおりのいい芝居である。昨年の『かぞくのひけつ』もそうだったが、もうひとつの大阪物語が登場した。