グッとくるものはないけれど 『椿三十郎』

9人の若侍は藩の汚職を追及しようとしている。もっとも話の分かるだろう大目付の菊井に持ちかけたところ、ぜひ話を聞きたいというので、彼らは社殿に集まり、事の行方について話し合っている。ところがその社殿、見知らぬ浪人(織田裕二)の寝床で、話をすべて聞かれてしまった。しかも、藩の事情など何も知らぬ彼の予言はやたらと当たる。命拾いした若侍はあらためて不正を追求せんと血気盛んになるが、その慌てた様子を見るに見かねた浪人・三十郎は、思わず助太刀を買って出てしまう。
黒澤明作品のリメイクで、当時の脚本をそのまま使用したのだという。それがよかったのか悪かったのか、答えを出すのは難しい。大監督のリメイクをすれば、だいたい誰だって非難されるのが落ちだし、評価されても同情半分ということがなにかと多い。そのなかで、この作品もご多分に漏れず、パッとしなかったというのが正直なところだ。ただ、それが森田芳光監督の評価を悪くしたかといえば、そうは思わない。
あくまでこの作品は、実験作という位置付けと見ていいはずだ。映画が誰のものかという論争はあるが、森田監督であれば、監督自身のものと考えるだろう。だったら本来、オリジナルの作品で勝負したいものではないか。それを敢えて脚本まで同じものを使用するのだから、代表作にするつもりなどさらさらなくて、巨匠の亡霊に殴られるのを覚悟で模写しているのだ。絵画の世界には模写はいくらでもあって、たとえばピカソの模写はそれそのものが作品に値するといわれている。映画に模写が少ないのは予算的な問題によるところが大きかろうが、これは大きなチャンスだった。この経験をもとに、新しいなにかを作り出すとしたら、それはとても楽しみなことである。
もし敢えて、この作品が現代に映すものがあるとするなら、新人類と団塊ジュニアの交流ではないか。初めて核家族前提の育ち方をした新人類(=三十郎)は持ち前のバイタリティと手探りによる経験値で生き抜いてきた。いっぽう、団塊ジュニア(=若侍たち)は温室育ちといっていい。正義感は強いが、人を切ったこともないし、切り方もよく知らない。策もないのは、経験のなさゆえ。頼りにしたい伊織(松山ケンイチ)の伯父・城代家老の睦田(藤田まこと、=団塊世代)にははぐらかされる。そこで団塊ジュニアは新人類を頼りにして作戦を遂行しようとする。しかし実際はほとんどなにもしていない。三十郎からなにを学んだのか分かるのは、もっとずっとあとのことになるに違いない。それはたとえば新人類ジュニアが登場するころかもしれない。
さて役者陣でいうと、若侍9人が、一部を除いてひとりひとりの判別に至らなかったのが残念なところ。鈴木杏の奮闘も悪くないが、村川絵梨があんなに着物が似合うとは思わなかった。演技のことには触れませんけれど。