ゆるきなかにも礼儀あり 『転々』

大学8年の文哉(オダギリジョー)には84万円の借金があった。ある日、突然に借金取りの男(三浦友和)が部屋に上がりこんできて、3日以内に金を用意するよう言いつけるのだが、文哉に策があるわけがない。ところが数日後に現れた男は、金をやるから自分に付き合えと言い出した。霞ヶ関がゴールの東京散歩をするという。男は、福原と名乗った。
封切りから1週間以上経ったにもかかわらず、劇場は超満員。僕も立ち見の鑑賞となった。今週末にはロードショーになるようなので、すこしは座りやすくなるだろうか。
さて。今作は、ただてくてく歩くだけ(ときどき止まったり走ったりするけれど)。そして霞ヶ関に着いたらさようなら。本当にそれしかない。福原の風貌は相当怪しいが、文哉も大学8年の臭そうな雰囲気がぷんぷんする。ちょっと花くまゆうさくの漫画に出てくるハゲとアフロみたいだ。
歩きながら福原は思い出をポロリと語る。ほとんど問わず語りのようなものを。ときおり福原がけしかけて、幼いころに両親を失った文哉の思い出話もはじまる。思い出の場所に出かけもする。でも、だからどうということはない。成果は強いて言って、思い出をすべて忘れようとして生きてきた文哉が、少しは自分と向き合う時間をつくれたことぐらいか。
この散歩中の会話で気になったことは、それらがアドリブなのかどうかだ。鑑賞後に雑誌で確かめたところでは、完全に台本どおりになったいるらしい。しかし、ただ観ているだけではその見分けがつかない。たとえば、散歩するふたりをバスが追い抜く。すると福原が、妻とよくバスに乗ったもんだと語りだす。この場面など、もしかしたら三浦自身の目に入ったものを福原としてぼそっとしゃべって、次のカットでどう話しつづけるのかはじめて肉付けているのでは、と思わせる。そんなことはないそうだが。
で、てくてく歩くふたりとその周囲では、コネタのオンパレードだ。もしやこれはコネタがメインなのではと勘違いするぐらいに、いや勘違いしっぱなしでもいいぐらいたくさん展開する。もちろんコネタだから、ひとつひとつがつながることなく終わっていく。散歩で出くわす事柄なんて、連関性があるわけがない。だからぶつ切りでいいのだ。ちょっとテレビ的と際どいけれど、演出がすごいせいでしっかり笑わせられた。もう悔しいぐらいに。
後半、てくてくに変化が生じる。思いがけず負傷した福原は、他人の結婚式で「ニセ夫婦」を演じた相方・麻紀子(小泉今日子)の家に転がり込む。すると、彼女の家では「ニセ夫婦」がまだ続けられていたのだ。つまり、一時預かっているという彼女の姪(吉高由里子)に、嘘で塗り固めた関係を信じさせてしまっていた。福原と姪っ子はまさかの鉢合わせをしてしまった。ついでに文哉が巻き込まれて、仕方なしに擬似家族として幾日かを過ごす羽目になった。
その光景が、吉高の存在のせいもあり、『紀子の食卓』状態なのだ。三文芝居のようなちょっと大袈裟な会話をしながら、すき焼きを囲んでいるではないか。両親のいない文哉は『紀子―』の上野駅54さんだろうか。いや上野駅54は麻紀子のほうか。ともかく、文哉にとってはこそばゆくも嬉しいひとときなのだろう。でも、『紀子―』に描かれているような、役割を演じることによるサークルはそこにない。つい、吉高が演じていたヨーコの「どいつもこいつも楽になりたいだけだろ!」という台詞を思い出してしまう。
そして擬似家族として最後の食卓、カレーライスのシーンでは、福原と文哉が擬似親子の役割を超えて、しみじみとなってしまう。その理由はここでは書かないけれど、ぐっとくるいいシーンである。
久しぶりに長文になってしまったが、なんでもないような散歩、擬似家族としてのつかの間の団欒、福原と文哉の別れ方など、その雰囲気がとてもいい。小津安二郎みたいなのだ。具体的にどうということではなくて、小津の気取ったところとか理想主義的なところとかを削いで、ちょっと人を笑かそうとしたら、今作の世界になるのかしらとふと思う。