テレビが土足で上がってくる 『自虐の詩』

大阪。オンボロのアパートで若いふたりが暮らしている。イサオ阿部寛)は極道から足を洗ったが、ろくに働きもせず、舎弟たちと遊んでばかり。虫の居所が悪くなると、ちゃぶ台をひっくり返して食事をだめにしてしまう。そんなイサオをどういうわけが愛してやまない幸江(中谷美紀)は、ラーメン屋で働いて家計を支えるが、生活は貧乏極まりない。それでも、故郷で不幸のどん底を味わった幸江には、追い求められそうな幸福に感じられるのだった。そして、案外ふたりは似たもの同士でもあった。
たとえ天下の松竹といえども、ときにはヘマもする。残念だけれど、この作品がそれだ。起承転結はっきりとした分かりやすいストーリーで、登場人物の設定も都合がよろしい。見せ方も分かりやすい。ナレーションでストーリーをつくらなかっただけ救いではあるけれど、つまりこれはテレビだと思う。そのときその場面ごとにスクリーンに現れるものだけを認識し、状況を把握し、薄っぺらい感激に涙する。映画の観客としては、行間を読むような作業を楽しみたいところなのだが、それを許してもらえなかった。
映画たり得なかった決定的な要素は、幸江がどうして東京で堕落してしまったのか、さらにイサオがどうして堅気になりきれないのか、という大切な部分がカットされていることだろう。映像が語るわずかな要素から導き出すのは映画の醍醐味だけれど、それは一切ない。つながりを絶たれたまま、「いま」だけで感動してくれといわれても、ちょっと困る。
いわば、テレビが映画に土足で上がりこんできたようなものだ。べつに排他的になっているわけではない。映画業界を潤すには、日ごろテレビばっかり観ているような人も引き込まないといけないから、彼らにも分かる映画でないといけない事情は分かる。ただ、なぜわざわざ映画館に行くのかという疑問への答えにはなりえない。そこを堤幸彦監督がどう考えているのか、気になる。
批判ばかりになってしまったが、もちろんいいことだってある。セットはすばらしかった。ふたりの部屋、ラーメン屋、幸江が故郷で住んでいた家、そのほかさまざまな空間が、本当によくつくりこまれていて感動した。考えられないところから飛行機が登場したりと、CGで都合よくつくった映像も含めて、監督のディテールへのこだわりには降参である。
そしてなにより、中谷美紀がやっぱりいい。キュートだ。この人はどうなっているんだろう。大量のキャリアの持ち主ながら、僕と5つも違わない。まだまだ僕のもつ物差しでは計れないようだ。ほんとうにどうなっているんだろう。
ところで、脚本の里中静流ってだれなんでしょう。架空の人じゃないんですか。