生きることと生きていることの強烈な表現 『Mayu ―ココロの星―』

まゆ(平山あや)は医者になりたかった。子供のころから、母親(浅田美代子)は幾多の病に冒され、克服してきた。その姿をずっと見てきた。しかし医学部への3度のチャレンジも実らず、出版社に勤めるようになった。恋人ができ、母親も何度目かの入院生活を終えて帰ってきたが、順調な日々は長くなかった。胸部にしこりを感じるようになったためだ。検査の結果、悪性腫瘍と判明。直ちに長い闘病生活が始まった。
まず、道産子として申し上げたい。この作品の舞台は僕の故郷の札幌だが、これほど生活者のリアリティをもってスクリーンに現れた作品をほかに知らない。山腹から見た石狩平野や市電のある風景は、観光地としての札幌ではない。すすきのも、クラーク像も、狸小路も、雪まつりもない。ジンギスカンとうきびもない。大通公園のシーンはあるけれど、それを強調することもなく、背景にテレビ塔や資料館をなんとなく見せている。病院の屋上にわずかに現れるJRタワーを観光スポットだと思う人はいないだろう。
それでも札幌を描けるのだ。古い話になるが、北海道は内国植民地と言われてきた。本州以南を内地と呼ぶように、最近でも外地としての風土を残している。近世の日本は数多の国々(郷土)の集合体であり、その状態は今日の「国のかたち」の根拠になっている。では、外地である北海道は日本と言えるのだろうか。大袈裟になってきたが、監督に息を吹き込まれたスクリーンの札幌を見ていると、日本のひとつの郷土として、軟着陸を果たしたような感じがする。
さて、作品の本題は、主人公の乳がんとの闘いだ。聞くところによると、原作者がロケのかなりの部分に参加していたという。僕よりも年下なのに、なんと立派な方言指導をしたことが感心したものだが、それ以上に、闘病というものの実情をかなり克明に映像化しているのではないか。経験者ではないのでとやかく言えたものではないが、術後に痛みで悶えるとか、抗がん剤を打ってどうなるとか、精神的な混乱や葛藤といったものに、いままでにない納得感を得られた。
闘病は精神的な闘いの要素が強い。それは家族愛とか友情とか、アメリカの成功物語みたいなものではない。ものすごく孤独なのだ。他人の幸福を恨みもすれば、自傷行為をする友人に思わず手が出るし、自ら恋人との離別を決意もする。闘病仲間の死に泣き、自らの明日への不安に泣き、吐いて吐いて吐きまくる。やがて病気を克服したとき、痛みの分だけ強く優しくなれる。生きることと、生きているということが、本人と生活空間を一体として表現されている。
このリアリティあふれるストーリーのなか、主演の平山あやの格闘たるや凄まじい。好演と彼女がもつ潜在的な力強さに、観客はつい泣きそうになり、彼女のことが他人と思えなくなってくる。釣りバカの舞子さんから今作まで、なんと幅広く演じられるのだろう。ある特徴で売る役者より、どんな色にもなれる役者のほうが好きだ。
それに引き換え、共演者たちがもうひとつなのが残念。闘病仲間たちは好印象なのだが、それ以外の演者たちへの演出にやや疑問がある。池内博之に至っては、コールセンターのマニュアルを棒読みする人みたいになってしまっている。脚本にも難がある。「いい誕生日だったね」なんて台詞があってはいけない。言われなきゃそう思えない誕生日なら、撮影しないほうがいい。
偶然、時間が合ったので鑑賞したまでだけれど、意外にもしっかりとした出来にちょっと驚いた。芦名星安田顕の共演など、ちょっと変わった楽しみ方も出来る。なお、大通公園北極星を見るのは至難の業だと思う。それから、於保佐代子が通う弁当屋「はちわか」は個人的にとても懐かしい。うかうかしているとすぐに完売してしまう人気店。ご飯を盛るだけの弁当がショーケースに陳列されているのよね。何十年も前からボロボロの外見です。