大きな問題と小さな楽しみ 『サウスバウンド』

東京で暮らす二郎と桃子の兄妹の父・一郎は(豊川悦司)かなりの変わり者で評判だ。かつて過激派のリーダーで鳴らしていたらしいが、そんなことよりも、正義感だけは強く、偏屈でろくに働かず、貧乏だということのほうが問題である。しかし父親譲りの正義感ゆえ二郎も厄介事を起こし、いよいよ社会との付き合いに限界を感じた母親・さくら(天海祐希)は、一郎の先祖が眠る西表島への移住を決意する。ゆかりある人びとの援助で何とか転地での生活をはじめた一家だったが、そこで一郎を奮い立たせてしまうような新たな問題が勃発する。
お世辞にも森田芳光監督の代表作とは言えないまでも、さすがと頷くポイントがあった。もちろん、代表作と呼べない過ちもあるわけだが。後者から書いていく。
ストーリーは二郎の視点を借りて進むが、一郎にまつわる作品だ。一郎は過激派と呼ばれるような主義思想の持ち主であり、ある時期はレジスタンスたる輝きを保ちえたが、この時代の東京でそれになんの評価もなく、早い話がプータローである。
ではそれが西表島で変わるのか。人間の本質がそれほど大きく変わるものではない。島の人びとが一郎に優しいのは、彼が伝説の人物の子孫であるからで、左派的な集団だからではない。ただおおらかなだけだ。もちろん、開放的な空間でのびのびと暮らすのはさぞ気持ちのいいことだろうし、よく働く父親というのは子供にとってよき存在に見えるに違いない。しかし、沖縄の色眼鏡が、一郎を正当化したように見せかけているだけのことだ。
一郎は空気を読まない。というより、大人にならない。社会に溶け込んで、自らの考えに理解を求めようとしない。最後までそれで押し通す。そこに反省はないのだろうか。革命を目指した人びとが、なぜ革命を完遂できなかったのか。そのことに対する説明もなければ、批判もなく、ただ懐古的に浦島太郎みたいな主人公をつくったところで、この時代の作品としての地位を築けるわけがない。逃げている。
どうしてこの作品をつくるに至ったのかは、きっとどこかの雑誌に書いてあるだろうから、後で読んでおきたい。さて、大枠では批判的になってしまったけれど、監督の演出にはすばらしいものがあった。さすがとしか言いようがない。
天海が移住宣言したときの豊川の表情がいい。いままでただの変人であり続けた一郎が、一番の理解者であるさくらを大好きで、一緒でないと生きられないという、男のかわいらしい部分を垣間見せた瞬間である。あるいは、兄妹の歳の離れた姉を演じた北川景子西表島の巡査を演じた松山ケンイチ。このふたりが、いままでにない演技をしてみせる。とろけている。そして温かみがあって、いままでで一番いい。二郎役の田辺修斗も、受難の男性の子役としてはかなり光るものがあった。
映画からはややかけ離れるが、それにしても南の島に移住とは羨ましい限りである。ぼちぼち東京在住も3年になるけれど、石の上に座るのがちょっとしんどくなってきた。いや待てよ。ただひとりでいるのがしんどくなってきただけじゃないのか。寒くなってきたし。忘れたい不安を思い出させてしまうこの映画の罪は重い。
(サウスバウンド おかわり)
そうだ、ひとつ大事なことを書き忘れていた。この作品でもうひとつ心地よいと思ったことがある。それは、西表の自然を守ろうとする謎の環境保護団体と一郎が対決するくだりだ。環境問題にとって非常に大きなテーマとなっているのが、かかわりの問題なのである。
一郎が住み着いた土地は、東京の開発会社が老人ホームを建設予定だった。それを阻止すべく環境保護団体が立ち振る舞ってきたが、一郎はそんなこと露知らず居座ってしまったので、話がこじれた。
しかし、もっともシンプルな結論にたどり着いたといえなくもない。開発会社にしろ、環境保護団体にしろ、よそ者であることに変わりはない。よそ者が意見を言ってはいけないという理由はない。しかし、結論を地元の者が下す根拠はある。それがかかわりの問題であり、自治につながる。
その土地にどれだけかかわっているか。とくに生業としてのかかわりがどれだけ強いのか。その強さが意思の優先順位となり、合意形成が取られるというのが、環境問題にとってオーソドックスな話し合いの手段だろう。しかも、多数決の論理がない場合が多い。のちのちの関係に影響をきたすため、全員の合意があるまで、延々と話し合われる。寄合の基本だ。
一郎は、かかわりの弱い環境保護団体の共闘提案を拒否する。二大勢力化して対立することを拒み、生業と自治を主張する。地元の者として生きていくことの決意表明にも見える。建設会社の懐柔も面白い。彼の言い分もまた、生業とともにある。このふたりが手を組んで島を守ろうとすれば、それ以上なにもいらないのに。それが思うに任せない。
もっと言えば、一郎の行動を、島の仲間たちは一切手伝おうとしない。彼らには一郎がまだよそ者に見えるのだ。あらゆる関係性が、非常にリアルだ。そして一郎の考え方は、そのときにおいては実にすがすがしい。