これは浄土ムービーだ 『めがね』

春。温暖な小島に飛行機でやってきたタエコ(小林聡美)は、大きなトランクを引きずって、民宿のハマダにたどりついた。観光でやってきたつもりだったが、観光するような場所はどこにもない。民宿の主・ユージ(光石研)や、春にしかやってこない不思議な女性・サクラ(もたいまさこ)は、ただそこでたそがれていた。ついていけない。タエコは宿を替えることにした。
「たそがれ」は夕方を意味する時間の言葉である。「たそがれる」という言葉も「夕方になる」「人生下り坂に入る」ぐらいの意味しか、辞書には載っていない。しかしこの作品でいうそれは意味が異なる。たとえば夕焼けを見てなんとなくノスタルジックな気分になってしまうことを表すのだが、そう言ったタエコを単純だと、島で教師をするハルナがばっさりと切り捨てる。その島でたそがれるのは、夕方だけではない。語源である「誰そ彼」のごとく、一日中、誰かを思ってみたり、これまでの自分自身と向き合ってみたり。その島では、それが日常なのだ。
たそがれる土地の映画ではあるが、映画がたそがれるわけではない。映画には、普遍が描かれているのみである。誰も、たそがれることを他人に押し付けない。なのにいつの間にか、その色に馴染んでしまう。理論なんかいらない。ただ記憶に従って生きていく。なんと保守的なことだろうか。
途中に登場するもうひとつの宿「マリンパレス」は理論の実践をしている。それがアンチテーゼとして反映している。一見、理詰めで哲学的な感じがするが、それぞれの記憶と切り離されているために、補完しなければならないことがたくさんあるはずだ。ハマダの人びとには補完することがなにもない。重力に従っているだけ。はじめから完成している。それぞれの記憶によるそれぞれの哲学があり、パラダイムでつながる。「ここにいる才能」の問題でしかない。
ふと思う。浄土の思想に似ていると。自らの限界を明らかにし(諦める、の語源)、阿弥陀仏に降参し、助けを求め、念じる。そして浄土に生まれることができる。念じることを誰かに押し付けない。なにかよいおこないをしようともしない。なにもない温暖な小島は、浄土なのかもしれない。自らのペースで休暇を過ごすことができずにいるタエコも、かわいい男子がいないから死にたいとつぶやくハルナも、自らではどうしようもない事柄があることを知り、たそがれる。サクラはまるで導師様だ。
全体に美しい映画になっている。そして食事がたくさん登場するのがうれしい。重箱のちらし寿司、ご飯、味噌汁、卵焼き、ハムエッグ、大きなエビ、ビール、サクラのつくるカキ氷、そして梅干。映画を観ながらあんなにじゅわっと唾液が出たのははじめてである。などと書いているいま、急にお腹がすいてしまった。