渋谷で唖然とす、あるいは『たとえ世界が終わっても』

たまには都内の空気でも吸わないと。渋谷も日曜の松涛界隈であれば、とくに昨日のような雨模様であればなおのこと閑静であり、職場が都内にあってあと少し所得があればこんなところに住みたいものだとひとりごつのであった。
とまれ、雨のなか思い切って渋谷に繰り出し、『ミリキタニの猫』鑑賞後、やや時間があったので、付近の居酒屋に飛び込んだ。ここがまた渋谷とは思えないい空間、つまり客がひとりもおらず、ただひとりの店員が暇そうにテレビを見ていた。音楽のうるさい店よりずっとましだと思い、酒一合に鰤の照り焼きを頼んだ。
閑散とした店には、不穏が付きまとう。店員が誰かに電話している。「この白身の魚ですよね」。たしかに店員はそう言った。鰤を白身と表現する人に会ったことはないが、赤いか白いかといわれれば白いので、どうかそれなりのものが出てきますようにと祈っていたら、それは出てきた。
照り焼きであることに間違いない。しかし、わたしが想像する鰤とは容姿が大きく異なった。つぶれたラグビーボールのような断面を持つその魚には、太い中骨があり、切り身の端にはひれのようなかりっとしたものがついている。身はすこぶる柔らかい。
それは鰈(カレイ)であった。黙っていようかとも思ったが、店員が一生鰤と鰈を勘違いし続けるのも気の毒なことだし、ほかの客が注文したら、どんなトラブルになるとも知れないので、いちおう打ち明けておいた。その分の値段はサービスしてくれた。
たったひとりの店員、なにも知らなくても愛想さえよければ、突き出しにスーパーの見切品のような卵焼きを出されても我慢する。しかし、グラス三つを抱えて座敷にやってきて、足でふすまを開けた時点で、わたしは頭を抱えてしまった。ちなみに、その座敷に客が入る前、土足で畳に上ったのも目撃してしまった。当然、それ以上の注文はできなかった。
意気消沈のまま訪れた劇場で、リバイバル上映の『たとえ世界が終わっても』を鑑賞。想像していた以上に丁寧につくられていた。きっと潤沢な予算ではなかったと思うが、撮影位置を変えての豊富なカットと、撮影技術と、編集とで、スケールの大きな作品になっていた。安田顕という配役が見事だった。作品に色をつけない飄々とした存在がいい。録音がいまいちなのがやや難点か。