新しくないことは古くならないということ 『包帯クラブ』

高校3年生、いまやその多くを受験生と呼ぶ。けれど、学生なんて大人になる前のリハビリみたいなものでしかない。やがて誰しも大人になる。子供のうちにあったたくさんの可能性は徐々に消えていき、大人になると、子供の可能性を消していく存在になる。ワラ(石原さとみ)はその境界上にいる自分が嫌になっていた。夢もなければ取り柄もない。ある日、病院の屋上に立っているところを、ディノと名乗る少年(柳楽優弥)に呼び止められた。魔が差して飛び降りる寸前に見えたのだという。彼は突然、ワラの腕にあった包帯を鉄柵にくくりつけた。なにか胸がすく思いがした。この出来事をきっかけに、ワラたちは包帯クラブを結成する。
僕の頭のなかでは4年ぶりの堤幸彦作品(前回は『恋愛寫眞』)。まさかこんなに精力的に映画を撮る人になろうとは。久しぶりに見た監督作は、前回に比べて落ち着いていた感じがしたけれど、相変わらずうまくない。どうしてもテレビ的な部分を消すことができない。テレビばっかり観ている人を映画館に呼ぶんだからそれでいいのかもしれないけれど、映画ばっかり観ている人にとっては不満が残る。編集で1カットの時間が短かったり(冒頭の風景などは急ぎすぎている)、ナレーションや台詞で状況をカバーしようとしていたり、音楽に頼ったり、その音楽をぷっつり切ってみたり。脚本にも、台詞に頼ることなく、もっと身につまされる工夫がほしかったと思う。
でも、今回に限ってはそれでもいいような気がしている。この作品がもつ爽やかさの前では、些細な問題といえよう。この作品でいう心の傷というのは、スケールが小さい。ひとりひとりの私小説のなかにおいてのみ理解される傷であり、フィクションとして安直な過去である。しかしそれが現代なのであって、かかわりあいが欠乏しているからこそしばしば出現する類のものなのだ。それを批判しても仕方がない。でも、かかわりあいによって「なあんだそんなことか」で解決できることは多い。
包帯を巻く、巻かれるというかかわりあいによって、重大な問題は些細な問題へと変化を遂げる。包帯1本でなにかが変わったらめっけもん。ユニークなアイデアだが、しかし描いていることは新しくない。痛々しい癒しにも見えるが、今日が癒しなしでは進化できない思考停止にあるのは、事実として受け止めないといけない。この作品は、生きていくことへの根拠(=アイデンティティ)を見つけるという普遍的なテーマを、どこまでもまっすぐ表現している。
普遍的であるということは、時としてとても大事なことだ。新しくないということは古くならないということを意味する。今年でなければ描けなかった作品ではない。だからこそ、10年後に観ても古さを感じさせないはずなのだ。時が断てばたつほど、作品の質が上っていくような気がする。ぜひ10年後をテーマにした続編を作ってほしかった。エンドロールののち、大人になったディノの姿が端的に描かれてしまったのは残念である。あるいは、ほかの監督だったらこの原作をどう料理するのか。さまざまな監督の『包帯クラブ』ばかりを集めた映画祭をやったら面白い。
作品の舞台は映画の街・高崎である。大人になることへの底知れぬ不安を描くのに、北関東の乾いた風景がよく似合う。たくましい東京や、まだまだぬるい居場所がたくさん残る福島では、ちょっとこのテイストは出せない。キャストでは、石原さとみがものすごくいい。はっきり言ってこの子が好きだ。スクリーンで見るのは3年ぶりだけれど、いままで見たことのない雰囲気を出して、いっそう艶っぽく、声もいい。たまらん。と監督も思ったに違いない。主題歌を歌う高橋瞳も、作品によく合っていて素晴らしい。なんでこんなに褒めているのか、自分でもよく分からない。
(追記)映画の作中で携帯電話をうまく出すのは難しいといわれるけれど、今作ではそれがごくごく自然にできているのも評価が高い。石原さとみの携帯をもつ姿の美しいこと! そういえば携帯を頻繁に使うキャストが限定されている。それも小道具としてうまくいった要因ではないか。