カントリー・ヘリテージに友情をのせて 『遠くの空に消えた』

亮介(神木隆之介)は東京から馬酔村にやってきた。はじめは周りに都会育ちのいけ好かない少年として見られていた彼も、ガキ大将の公平(ささの友間)や毎夜天体観測している少女・ヒハル(大後寿々花)と仲良くなり、村になじんでいく。そんな彼らの友情とは関係なしに、村は空港建設に揺れていた。反対運動を続ける村人の結束を崩すためにやってきた公団職員こそ、亮介の父・雄一郎(三浦友和)だった。やがて発生した事件をきっかけに、亮介ら子供たちが蜂起した。
行定勲監督の作品をこれまで5本観てきて、映像作家としてのすばらしさを実感したものの、映画作家としてもうひとつ見えないものがあった。なんというか、監督を監督するなにかが存在していないと、独特のクセがかえって足かせになってしまうような傾向を感じていた。オリジナル作品である今作は、その点からすると、どうしても不安視せざるを得なくなってしまうのだが、見事に裏切られ、正直に申し上げて感激した。
村はとても独特の世界である。広大でなだらかな丘を持つ麦畑、そこここに見られるロシア文字、飲み屋にはスラブの女たちとちんどん屋のようなバンド、黒いテンガロンハットで決めたギャングのような青年団。異国とも違う、現実離れした風景だ。しかし監督は、その世界を浮いたままで終わらせない。ランニングシャツの公平と背広にメガネの雄一郎は、昭和という現実に存在したキャラクターだ。彼らが「現実とちょっとだけ違うどこか」を演出し、安定化させている。
この風景についてもう少し言及しておきたい。映画のなかで風景は記号として考えられるが、その記号は、わたしのような道産子に響くものがある。だれしも、生まれ育った土地の風景やそれに似たものに懐かしさや親しみを覚えるだろう。日本人の心の風景として登場するほとんどは「内地」のそれであり、西日本*1や北関東*2は印象的な舞台である。あるいは沖縄もひとつの原風景として成立している。では北海道はどうか。
近年の作品でいうと、『man-hole』では札幌、『パコダテ人』では函館、『銀のエンゼル』ではオホーツク、『雪に願うこと』では帯広がそれぞれ舞台となった。ただ、もっと統合的で、しかも観光地を出さない記号としての風景には程遠い。道産子が郷愁を覚えるような記号。いま挙げたなかでは『雪に願うこと』がもっともそれに近いと感じるのだが、冒頭の積雪と地吹雪で白けた景色が、どこといわず、故郷の冬を思わせるからなのだ。
今作においては、そこを北海道だと語るものはなにもなく、スタッフロールを見るまで分からないのだが、それでも子供のころの記憶が蘇るようで、その感覚が郷里を予感させる。あの、分け入っても分け入っても同じ風景という退屈さは、内地の者には分かるまい。たとえ非現実の世界としても、カントリー・ヘリテージがしっかと存在しているのだ。
さて、ストーリーにはふたつの友情物語がある。少年たちと、その親の世代だ。はじめは少年たちのストーリーだけが進行していくが、やがてそこにもうひとつ進行していたことが分かり、「神木、ささの、大後」「三浦、小日向文世大竹しのぶ」のシンメトリーに感動してしまう。そこまでの脚本の持って行き方が憎い。少年たちの演技のすばらしさに心を打たれたのちに、大人たちのいぶし銀の芝居で反芻する。ふたつの三角形は大きく交わることをしない。少年と父親の間なんてそんなものだ。
村人たちは、その生活に喜びと悲しみを内包しながらも、なんとなくつねに楽しそうである。音楽も陽気だ。それぞれのキャラクターは強く設定されているが、主張せず(大竹しのぶの台詞の少ないこと!)、脚本と編集でうまくストーリーを転がしていく。そして、実に豪華な出演人のひとりひとりが、驚くぐらいにいい顔をしている。細かく説明すると10人ぐらいを言及しないといけないので省くけれど、演出の確かさは折り紙つきである。今年最後の、素敵な夏休み映画になっている。