誰でも惹きつけられる人情噺 『河童のクゥと夏休み』

小学生の康一(横川貴大)は、ある雨の日に、川岸で大きな石を掘り上げた。その石を洗っていると、なかから河童(冨沢風斗)が現れた。河童は、何百年も前の大地震で生き埋めになってしまい、名前さえも忘れてしまったという。康一はクゥと名付けた。クゥは自らの仲間がことごとく姿を消してしまったことに愕然とし、また康一とその家族は、クゥを周囲に気づかれないようにするのに必死になる。しかし、長く隠しおおせるものでもなかった。
おそらく原恵一監督初の映画オリジナル作品ではないかと思うが、クレヨンしんちゃんのテイストを髣髴とさせる部分が数多くある。原監督自身、しんちゃんによって作風を決定づけるものがあったろうし、しんちゃんもまた原監督によって長生きしているということが分かる。
今作では、クゥはしんちゃんのようなヒーローにはならない。現代において河童は伝説の生き物であり、人間にとって博物以外のなんでもない。康一とその家族はそれを知っていて、クゥの存在が分からないようにするのだが、そのままいつまでも暮らせるものではない。インターネットでうわさが広まり、マスコミが強引にスクープし、野次馬と報道陣が自宅を取り囲む事態となる。一時、康一もその雰囲気に完全に飲まれ、のぼせてしまう。
その、現代人の醜態の表現にとてもリアリティがある。東京の川に現れたアザラシを思い出す。持て囃すか、忌み嫌うかのどちらかで、生活環境を守ろうとか作ろうとかする者はいない。康一の一家にしても、マスコミが取り囲むなかで、誰も助けには来ない。カーテンを閉め、電話線を抜いて暮らすしかない。クゥとの交流で康一には心の成長があったが、世間には成長も進化もあったものではない。
監督はわざと世間を善にしなかったのだろう。その分だけ、オッサン(犬)、菊池さん、キジムナーといったバイプレーヤーが映える。少年少女がクゥの冒険に夢中になっているとき、大人たちは康一の父さんや母さんに共感し、名脇役たちに惹きつけられてしまうのだ。彼らにもそれぞれのストーリーがあり、この作品に厚みをつけている。
総じていい脚本になっている。噂が広まりつつあるなかでクゥと康一が遠野を旅するシーンは、本人たちは思う存分楽しんだようだが、見ている大人は気が気でなかった。やや向こう見ずな前半に比べ、後半は重厚感あるストーリー展開に興奮できる。バスとか電車とか引越しのトラックとかを追いかけるシーンはいろいろ見たけれど、宅急便の集配車を必死に追いかけるというのは見たことがない。なかなか粋な演出ではないか。