作風を変えて、その結果は 『あしたの私のつくり方』

寿梨(成海璃子)は、どこにでもいるような父親と母親、そして兄と暮らしていたが、両親はなにかと言い争いが絶えない。そのなかで自分はかすがいとしての役割をもち、私立中学を受験し、家族の均衡を保とうとする。しかし受験に失敗し、両親は離婚する。数年後、小学校の同級生・日南子(前田敦子)が引っ越すという噂を聞く。彼女はある日を境に、いじめられる役回りを強いられていた。寿梨は他人を装って、彼女にある小説を携帯メールで送りつける。それは日奈子の新生活のバイブルとなっていった。
市川準監督、1年ぶりの新作である。そして少女ものは、いったい何年ぶりになることか。ご本人はあまり考えていないようだが、市川映画といえば少女という印象が強く、どうしても真骨頂かと期待が高まる。ただひとつ、成海璃子が市川作品のなかでは異色のキャスティングであることを除けば。そしてその予想は的中した。
その話はまた後にすることして、それ以前に、今回は作風を大幅に変えてきた。もっとも変更したのは技術の部分であって、監督の視線そのものが変わるものではない。それでもこの変化は大きかった。大きくいえば、編集が今までと違う。これまでは、音声と映像の切り替えをちょっとずらすことで、独特の流れができることが多かったが、今回はそれがほとんど見られない。それから、画面割り。スクリーンに2つ3つの映像を組み込む手法は、多分初めてだ。
画面割りについてはハイビジョンカメラを初めて採用したことが影響しているという。それはそれとして、画面割り以外の編集は、やはりどうしても監督のいままでの作品からすると、違和感がある。こんな部分が大きな話題になってしまう監督って、最近ではちょっと珍しい存在かもしれない。いずれ、実験的な作品という位置づけであることは間違いなさそう。
それから、携帯電話を映画に取り込む難しさを改めて浮き彫りにしてしまった。市川監督はCMの延長で映画を撮ることがあり(『大阪物語』『東京マリーゴールド』)、今作もそのひとつに数えられる。NTTドコモの出資で作られたこの作品は、携帯電話が大活躍する。テレビ電話までしてしまう。それをどうやって美しく映像化するかという点は、どの監督にとっても難問のはずだ。
メールを美しくスクリーンに登場された例に『子猫をお願い』がある。建物の壁に投影して見せたり、電光掲示板に表示させてみたりしながら、メールのやり取りを画面を使わずに表現していた。あれは画期的な発想で、それ以上のものを観たことがない。
今作では(一部は画面が登場するが)活字だけがスクリーンの一部に、新手のスーパーのように登場する。あるいは無声映画の台詞のように登場する。テレビ電話は、それぞれの人物が黒い背景のなかで話をすることで、目の粗い画面を撮影することなく表現している。しかし、いずれの手法にしても、携帯電話を魅力的な小道具にできるほどのものではなかった。
さてストーリーに目を向ければ、一方で両親の離婚は自分の演ずべき役割が十分でなかったからではないかと疑い、また学校で仲間はずれにされないような役割を演じることに疲れた寿梨がいる。また一方でみんなと仲良く明るく暮らしていたころを取り戻そうと、ケータイに届けられる物語をもとに演じ、しかしそれにも疲れた日南子がいる。このふたりが「本当の自分」として生きていこうとする大団円で終了する。
もちろんそこに至るまでの過程は複雑で、ここで多くを語るわけにはいかないけれど、この結末は誰に向けられているのか。という答えは各種メディアで散々語られている。「本当の自分」というよりは「なりたい自分」と呼ぶほうが多分ふさわしくて、誰に左右されるでもなく生きていくことは素晴らしいことだとは思う。しかし、それ以上に大事なのは、そうやっていくことを他人に認めさせることのほうだということを、市川翁の小さいお孫さんに伝えるのは厳しい注文であったか。
ところで成海璃子というキャスティングは、市川作品のなかではかなり異色だ。むしろ前田敦子のような少女のほうが市川作品的であることは、監督ご本人も認めておられる。そしてそのとおりの結論だった。好対照なふたりという演出としては、とてもぴったりとはまっている。演技力もさすが、圧倒的だ。しかし、それを市川映画のなかでやるとなると、やっぱり違和感を拭えない。
そんななか、日南子の母を演じた奥貫薫がいい。あまり大きな役回りはないものの、もっとも市川映画らしさを感じた。観ていていちばんほっとする演技だ。それから、前田自身は危なっかしいのだが、彼女が登場する川べり、遠景に山梨の山々が見える構図がいい。監督らしさとは違うけれど、思春期の心模様って、なんとなく盆地っぽい。
以上、市川映画のファンゆえ、長々と述べてしまった。次回作はたぶん大人の映画になると思うので、期待したい。