感動の頒布会 『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

最近、「昔」としての昭和の捉え方に変化を感じている。僕の生まれたころ(1980年代)から物心ついたころの「昔」といえば間違いなく戦中戦後だった。とにかく貧しかったとか苦しかったとかいう負の部分が前面に押し出されていた。それが00年代に入ると、『プロジェクトX』の登場で高度経済成長への懐古が現れた。そしていま、高度成長から低成長期へ、「昔」がシフトし始めている。
低成長期にまでなると、戦中戦後に見られたような貧乏な風情がない。電話はどこにでもあるし、移動は新幹線だ。これまで「昔はよかった」をベースに成り立ってきたパラダイムが、「昔も今もそんなに変わらない」となったとき、映画にどんな影響が及ぶのか。しかもVFXで「昔」の再現が容易になってしまったこの時代で。
さて、1963年生まれのリリー・フランキーの自伝的作品である。ボク(冨浦智嗣オダギリジョーほか)はオカン(内田也哉子樹木希林)の故郷・筑豊で、半母子家庭的に育ち、東京の美術大学をなんとか卒業して、ふらふらしていた。しかしやがてゴムの伸びきった自堕落な生活を絶ち、仕事に真剣に打ち込むようになる。そしてオカンを東京に呼ぶことにした。オカンは以前からがんを患っており、徐々に入退院を繰り返すようになる。
相変わらず原作も読まなければ、ふたつあったはずのテレビ版も見ていないわけだが、内容はともあれそれら作品そのものがモンスターと化していて、とりあえず感動できるなにかとして広く認知されていることはよく分かる。東京タワーという名のメディアといってもいいぐらいに。
しかし結局、僕にはどうしてそんなにみんなが感動できるのかが分からなかった。原作者に敬意を表すれば、映画の問題ということになろう。もしかしたらこの映画は、過去に何らかの東京タワーという名のメディアに触れたことのある人々が、スクリーンで追体験して、だいたい同じ場所で感動するようにつくられているのかもしれない。感動を、いまならセットで1,800円、みたいな。感動の頒布会なのだ。
おそらく編集次第でもう少し面白いものになったように思える。配役はどれもなかなかよかった。樹木希林の熱演には息を飲み、内田也哉子とのダブルキャストに感心し、松たか子の侘びさびのある佇まいに安心した。どこかに不満があるわけではない。ただこのモンスターが、映画に向いていなかっただけなのかもしれない。
ひとつだけ、この作品を見ている間には、時間がとてもいい流れをしていた気がする。オカンが死んでも、ずうっとこの時間が続けばいいのに。でないと、たったの2時間とすこしで、現実に引き戻されてしまうのだから。この空気こそが、あたらしい「昔」のパラダイムではないかと、ふと思った。