独特の映像感覚 『蟲師』

先日の大相撲、千秋楽の優勝決定戦は実に見応えがあった。がっぷり四つに組んだ大一番を見たかったとしたら肩を落としたかもしれないけれど、支度部屋からの一連の流れは、それそのものが大一番だったと感じられた。心理戦において、白鵬が勝っていた。しかし、それでもなお横綱は重く大きい。ようやくイーブンの立場になったといってもよかった。日本の美的感覚に訴える勝負ではなかったか。
ところで『蟲師』の映像は、さすがといっていいと思う。構図の安定感、映画としての様式美を兼ね備え、かつアニメーションを作り続けたもの特有のこだわりを感じた。
このことを説明するのはちょっと難しいけれど、スクリーンに映し出される映像は、自然に見えて自然であってはならない。その場面のその状況を伝えるのにもっとも相応しい状態を、作らなくてはならない。しかし人間には、どんなに整えてもなお雑然として見えるなにかがある。そのずれを敢えて重んじるか、技術で克服するかは監督それぞれの個性の問題だが、この作品の映像には、ずれがあまりにもなさ過ぎる。VFXを多用しているのだから技術による克服と捉えがちだが、そうではなくて、雑然として見えるなにかがはじめから存在しないように仕組まれているのだ。これがアニメーション的だ。しかし、その映像が日本の美的感覚に訴えるかといえば、必ずしもそうとは言えない。
蟲というのは、近代以前の日本に存在した、幽霊でも物の怪でもないもののことをいい、それに憑かれた者の治癒をする者を蟲師と呼ぶのだそうだ。この作品を観るに当たって予習が必要だとは知らなかった。そのぐらい分かりづらい。なにか意味があるのかさえ分からない。しかしこのように作品として完成したからには、現代社会を投影するものがあるに違いない。そう思ってみたのだけれど、残念な結果に終わった。少なくとも、娯楽映画としては不成立だ。
最後に、決して多くない出演者のなかで、もっとも映像世界に溶け込み、作品をぐいぐいと引っ張っていたのは、蒼井優だった。彼女は演じるなかで、空気を作り続けているのだと思う。その点、笠智衆もそうであったか。