多面体的な表現という醍醐味 『となり町戦争』

東京から地方都市の旅行会社にやってきて1年になる北原(江口洋介)は、町の広報誌に奇妙に記事を見つける。となり町と戦争をする。期日も決まっている。意味が分からない。だいたい、開戦日を迎えても町は平穏なままだ。しかし、次号の広報誌は、戦死者の数を伝えていた。ある日、北原に役場から電話があった。戦争推進室の香西(原田知世)からだった。北原が、偵察業務従事者に任命されるという。そして香西との奇妙な共同生活が始まり、戦争は着実に進行していく。たぶん。
渡辺謙作監督作品は『ラブドガン』以来2作目。この監督の計算された迫力ある作品に惹かれる。まず、この原作を撮ろうと思ったのが監督であるとしたら、その思考がいい。ひとつの物語のさまざまな側面を、ひと巻きのフィルムに、滞りなく表現することは、映画の醍醐味だ。映画は総合力であるが、同時に多面体的な存在でもある。その、映画でできることと、映画でこそすべきことが、この監督の作品にはたっぷりと含まれている印象がある。(ただし今回は前半ちょっとふざけすぎた感も。)
ひとつは町同士が戦争し、その偵察業務につくというコミカルな設定、ひとつは世界のさまざまな地域で起こっている戦争と、それに知らず知らずに加担している日本の暗喩、ひとつは近代という社会システムが生む、感情を無視した行為、ひとつは奇妙な状況のなかでも起こる愛情。
香西は北原に、あるいは戦争説明会で挙手した青年(瑛太)に、戦争の大儀と正義を説明し、民主主義に基づくと説く。しかしその根拠のあいまいさが、香西を悲しい存在にさせていく。あいまいさというものはこの作品においては当然で、明確になればなるほど物語が矮小化していく。あいまいであるからこそ不安は大きくなる。あるいは世界のどこかで起こっている戦争への説明だってあいまいだ。背中に迫る組織の暗くて大きなもやもやと、素直な感情との板挟みで、香西は苦悩する。物語は終盤に向かうにつれて殺伐としていくが、どこか胸のすくものがあるのは、彼女の苦悩と対峙し、脱出に立ち会おうとしてしまうからなのかもしれない。
ところで、またもや原田知世がいい。どんな設定にもしっくりきて、飄々としている。デビュー時を知らない僕の世代では、彼女を歌手として認知していることが多い。歌手としての彼女は好きでずっと聴いているのだけれど、役者としての彼女を好きになったのは、『サヨナラCOLOR』のころからだろうか。以来、観るたびにすばらしいと思えてしまう。
それから、瑛太にも言及したい。やっぱりこの役者はいい。去年も何度かスクリーンで観ているけれど、どれも印象的だ。期待しすぎて足りないことはなさそう。