きれいぶっても感動できない 『待合室』

岩手県一戸町小繋。かつて岩波新書にもなった小繋事件の舞台である。簡単に説明、というのは困難だけれど、山林の土地所有権と入会権をめぐる100年前からの争いで、死者も出ている。学生時代、研究内容に非常に近かったので、現地視察に出かけたこともある。実際のところ、一見さんにはその傷跡を容易に確認することができない。というのも、いまとなっては山を使うということがほとんどないのである。ただし、裁判で決められた境界線があって、いまでも派閥ごとに権利が分断されている。
さて、この作品は小繋を舞台にしているのだけれど、事件についてはまったく触れられていない。小繋駅の待合室においてある「命のノート」は、数年前から、全国の疲れた旅人の心のよりどころになっている。人生に疲れ果てた者も多いが、彼らへ丁寧な返事をしたためる和代(富司純子寺島しのぶ)によって、救われる者も少なくない。和代が小繋に嫁いだ昭和40年代初頭は、この年表にあるように、この事件の裁判が終わるか終わらぬかという時期にあたる。事実を元にした作品なので、よりリアルに描こうとすれば、ドロドロとした暗い人間関係が浮かび上がってくるのだろう。
もっとも、事実が元とはいえフィクションなのだから、ストーリーの進行の妨げになるものは、省略してしまって構わない。なので、事件についてあれこれいうつもりはないのだけれど、それにしてもこの作品は、あらゆることが都合よく流れていく傾向がある。きれいなのではなく、きれいぶっている感じがある。
脚本のゆえか演出か。などと書いている時点で、すでに両方という結論が出ているけれど、出演者たちの登場がわざとらしかったり、オチが見えていたり、でしゃばっていたりする。待合室でゆったりとノートを読んだあとに駆け出したところで、旅人を足の悪い老婆が追いかけられるでもなし、箒で掃きかけてゴミのたまったところをわざわざ歩くものでもなし、おにぎりを食べて「うまい」とか、マフラーを巻いて「あったかい」とか、わざわざ言う必要もなし。藤岡弘じゃあるまい。
ところで、学生時代の後輩が3年ぐらい前に、小繋で撮影している映画の方言チェックをしている、と聞いたことがあるけれど、この作品だろうか。このあたりの方言は、ネイティブにやっちゃうと本気で聞き取れないので、バランスが難しいところだ。しかし大ベテラン・富司純子には、遠野から嫁いだ人の方言をもう少しうまくやってほしかった。その点、ディテールは無茶苦茶でもリアリティを感じるあき竹城はさすがだ。