躍動する映画 『トンマッコルへようこそ』

朝鮮戦争のさなか、盛り返す連合軍の物資供給路に程近いトンマッコルには、戦争のことなどなにも伝わってはいなかった。このまま穏やかに暮らしていけるはずだったのだが、アメリカの軍人が墜落してやってきて、また陸路から南北の兵士がそれぞれ漂着して、事態は一変する。温厚な村人たちの歓迎を受けた兵士たちだったが、戦火がいまや遅しと近づいていた。
完璧さ、という観点で厳しく評価してしまえば、もうひとつなのだけれど、いい作品であることはたしかだ。ひさしぶりに、手に汗握るものを観てしまった。スクリーンが躍動している。活きている。スクリーンから感じる鼓動と観客のそれとが一体のものとなって、感動せずにいられなくなる。泣けるんだ。日本人の僕が泣けてくるのだから、本国の人びとがどれだけ感激したことか。
もっとコミカルなファンタジーを予想していた。もっともそれは当たらずとも遠からずで、トンマッコルの人びとはとぼけていて、あまりに悪いことを知らなすぎる。その世界はファンタジーでしかない。しかし、先の戦争のことをファンタジックに描けないというのは、韓国の本音といったところだろう。それでも、死にゆく人々を限りなく減らしながら表現できたことを、僕は高く評価したい。
亡き丹波哲郎が、無駄に人を死なせる監督が嫌いといっていたけれど、そもそも無駄というのは映画としていただけない要素でもある。説明過多の脚本の見苦しさと同じだ。死ななくても死を表現する方法はあるし、戦争を批判することだってできる。
この作品は、その表現に非常に長けている。生きることにたいして、実に鮮やかで微笑ましいのだ。イノシシを捕獲するシーンは、チャップリン時代のコメディを想起させる(あくまで想像なのですが)し、その肉を喰らうシーンは本当に旨そう。トンマッコルの村長が言う。指導力の秘訣は、たくさん食べさせること。食べることが楽しい場所では、戦争は起こらない。
だからこそ、ラストシーンに泣かされる。トンマッコルを戦火にさらさないため、兵士たちが手を組む。そして自らが犠牲になることを決め込む。遠くから少しずつ爆弾が近づいてきて、最後に彼らのところに落ちる、そのゆっくりとしたシーンは、なによりも印象深く残る。
ところで上の書いたように、戦闘のシーンはあくまで戦争映画のそれになっている。『ブラザーフッド』や『男たちの大和』を思い出す。たとえば山田洋次たそがれ清兵衛』も勝負のシーンだけが妙にリアルなのだけれど、この作品はその違和感と違う。あくまで戦争映画として存在していて、しかしファンタジー要素によって、別の表現をつくろうとしたという観点になっている。朝鮮戦争を、悲惨ではなく、矛盾という表現で描けたことの、本国での評価はどんなものだろうか。