残酷な生き物の残酷な描写 『ストロベリーショートケイクス』

東京にはさまざまな女性が住んでいる。たとえば、本人曰く最悪で惨めな失恋を乗り越えたデリヘルの受付・里子(池脇千鶴)、自意識と勝気だけは強いが食べては嘔吐する日々を送るイラストレーター・塔子(岩瀬塔子)、漫然とお茶くみOLをしながらすぐに男にかしずこうとする塔子のルームメイト・ちひろ中越典子)、デリヘルでお金をためているが好きな男には嘘をついて付かず離れずを続ける秋代(中村優子)のような。
ふうん、といった程度の映画だと思う。それで、といった程度の感想でもいいと思う。でも、観る側にたいした不快感も与えないまま、"ふうん"や"それで"で終えられるということの技術を見ておきたいところだ。光の使い方、部屋のシンプルさや構図のよさ、曇り空が似合いそうな服装の色合い。映像の美しさにははっとさせられるものがある。
もちろん脚本にしても、どこといわずによくできているなあと感じた。すごく映画的なのだ。語りのかなりの部分を映像に委ねるかたちで、あとは、喋る人は喋るし、黙る人は黙る。たいていは黙る。誰だって、喋っている時間よりも黙っている時間のほうが圧倒的に長い。だからこそ言葉のひとつひとつはエッセンスとなるし、沈黙の描写に女性たちの残酷さが浮かんでくる。
そう、とてつもなく残酷な映画なのだ。そのことを強調するための脚本であり、演出だということだ。あんな人ばっかりじゃあるまいに、という気もするけれど、4人のプロトタイプたちのどこかに、女性は共感してしまうのかもしれない。その可能性をひしひしと感じてしまうからには、女という生き物がよほど残酷な生き方をしているだろうと。映像以上に想像で恐ろしくなるというのは、ホラーだ。
想像の恐ろしさというのは、彼女たちに救いがないことにある。公式サイトには「人生にきちんと向かいあった時、彼女たちに小さな奇跡が起こる」とあるけれど、どこにそれがあったのか、よく分からなかった。奇跡が小さすぎて見えなかったんだと思う。だって、だれひとりとして10年後、20年後の確約がない。そりゃ、将来のことなんか誰にも分からないけれど、不確定でもどうにかなるほど、彼女たちを取り巻く社会は甘くない。彼女たちのほうがずっとよくそれを知っていなければならない。
鑑賞しながら、塩田明彦監督『害虫』を思い出した。あの救いのなさ。暗転したとき、思わず声がでそうになるほどしんどかった。あの作品の主役は、救いのなさをはっきり自覚したうえで、ずるずると蟻地獄に落ちていくことを選んだのだと思う。しかし、今作の女性たちは、自覚がないわけはないけれど、足りない。ラスト、里子が「恋でもしたいっすねえ」といって、暗転。同じことをぐるぐる繰り返すつもりか。それが奇跡であるものか。
男ひとりで観るもんじゃないね。よくできているからこそ、よしたほうがいい。役者たちがまた、よく演じているから、たちが悪い。たしかに里子は池脇千鶴にしかできない。あと、高橋真唯が悪女に見えます(ほんとうはそんなことないんだろうけど)。でも、彼女が扮する出版社のOLが、一番生き上手だよなあ。