二次林と映画

「『人間の手がまるで全然入っていないかのように、手を入れている』」僕はひろ子の言葉が気に入って繰り返した。
保坂和志 『夏の終わりの林の中』)

以前から、映画で自然体と呼ばれるものは、すべて作為的な自然なんだと、これはほとんど自分に言い聞かせるような感覚で書いてきました。いやまったく当たり前すぎてなんでもないことなのですが、その技法というか、どうやって僕を騙しにかかるのかというあたりに興味があるのですね。やられたなと思うときは、ことのほか心地よい。
もっとも映画にもいろいろあるし、それというのも好みが千差万別だからなんでしょうから、たまたまそういった作品が好みだというに過ぎません。僕の場合そのルーツは、もしかすると二次林にあるのかもしれません。
二次林というのは、人が手を入れた森林だと端的に言っていいと思うのですが、一見、うっそうとした原生林のようでも、日本の森林はだいたい二次林です。学生時代は林学をかじっていましたので、研究のお相手は二次林でした。森林には森林の論理というか、未だにうまく言い表せない哲学のようなものがあります。静的で包容力がある。予測不可能なことに対して実に寛容です。
だから人間は森林に簡単に手を入れられるのですが、そのなかにもきれいさや美しさがあります。きれいということと美しいということに違いがあるとすれば、理路整然としたものがきれいで、そこから微妙にずれたものに対する感覚が心地よければ美しいということになるでしょう。そこでいうところの美しさを、映画のなかにどうしても探してしまうのです。
今年の秋も、期待できる新作が目白押し。追いかけているうちに年が暮れていくことでしょう。