運動は流行らず 『ゲルマニウムの夜』

映像の作り方といい、キャストといい、脚本といい、大人の面白さというか、不道徳や心理の暗部がボロボロ出たブラックでコミカルな作風を、僕個人は楽しめました。おそらく『赤目四十八瀧心中未遂』を観た経験から、なんとなく「そういう感じ」なんだろうと覚悟したことも大きいのでしょう。みんな眼光がきつくてなあ。ベテランはいいとして、若い人ほど余裕のない目をしているのは、あれってなんだろう。
しかし主演の新井浩文はいいですよ。僕の知っている出演作のなかでは、とくにいい演技じゃないかと思います。この人もほんとに真面目そうですよね。でも柔軟性があって、相手のリズムに合わせながらも存在感を出しています。いつも侮れないなあと思います。
作品の内容、キャスト、スタッフと、なんの不満もありません。観てよかったと思いますよ。構造とか道徳とかリベラルとか、なんだか米ソの対立みたいですけど、そういうことだけで世界は回らない。ということを、石井克人みたいに描くか、西原理恵子みたいに描くか、はたまた荒戸源次郎みたいに描くか、ってことだと思うのだにゃあ。(書いているうちに酔ってきた)
ただし、そこなんだと思うのだ。この作品の製作者たちは、「日本映画維新」と呼んでいるそうだけれど、残念ながら僕とはちょっと考えが合いそうにないなあ。なんで映画を撮るんだろうということを考えたとき、リュミエール兄弟みたいに、「そこに動くものがあるから」と言っている場合ではありません(彼らも言ってないかも)。
三谷幸喜が映画を撮ることにヒントを得たいと思うけれど(推測ですが)、舞台なら、場所はひとつしかない。ある時間に一斉にひとつの作品を各所で見せたいと思えば、舞台を生中継で放送するか、録画してフィルムを配るしかありません。舞台の緊張感や臨場感を優先するならば前者でしょうが、だったら現地で見るに越したことはなく、平等にメリットを配分するなら後者です。
つまり、商業映画である以上、数多ある映画館のできるだけ多くで上映可能で、理解可能なものに仕上げる、それができなければ、せめて「かわいい」か「かっこいい」かのどちらかをちりばめる、という部分から逃れられないんじゃないかと思うのです。もちろん、だからこの作品がナンセンスだ、とは思いません。でも、今日びシネコンサウンドシステムって結構すごいですよ。ほかで絶対に上映できないってことはないでしょう。実際、東京国際映画祭では六本木で放映したわけだし。
それに、僕は日本映画がそんなにダメだとは思いませんよ。彼らは「韓国映画には止めを刺された」というけれど、目の肥えた韓国人のボックスオフィスの上位を、日本の作品で埋めたことだってあるのです。つい最近のことです。今年僕が観た作品にも、海外のフィルムマーケットで注目させたいと勝手に思う作品がいくらかあります。そういう作品を見つけてもらえるようにする。むしろそこに着眼したいものです。
頑固なラーメン屋運動は流行っても、頑固な映画運動は流行らない。高い鑑賞代を払って、太陽よりも北風を選ぶとは、ちょっと考えにくいのです。