とりあえず米を炊く

この週末は取り立てて観たい映画もなかったので、遠出をやめて家で食事をとることにしました。ここのところ数ヶ月というもの、玄米による生活を(飲み会のない休日に限り)実践した結果、体にはいいが豪快に喰えない、という結論に達しました。そこで最近、白米と半々にして炊くという案に行き着き、これが白米のみを喰らうよりもうまいことに気付いたため、ついつい腹一杯にしてしまいます。今日も昼と夜で3合ぐらいでしょうか。おかずに乏しいのに。
腹一杯といえど、宮沢賢治は『雨ニモマケズ』のなかで「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と書いているのですね。こんなに大量の玄米を食べたのでは、腹具合もさぞかし立派なものになっていたことでしょう。玄米を食べた翌日の産物は、本当に分かりやすい見た目をしていらっしゃるから。もっともそれが楽しみで玄米を食べる、という面もちょっとありますね。定期的に体内を掃除しないと、もう酒びたりでえらいことになっていますから、日頃は。
それはそうと、もう白米だけのご飯というものが、非常に物足りないんです。食べることもそうですが、米研ぎのときに、ゴツゴツした玄米を覚えてしまった手が、白米に触れて寂しがるんです。こんなにさらさらしていていいのかしらと。さらさらのわりに研ぎ汁が濁るし。
先日、ターザン山本!氏も同様に、「白い御飯というのは、考えてみたらおかしいよなあ。イノセントすぎる。」と述べておられました。なるほどイノセントですか。ときどき無性にほしくなるのは、そのせいでしょうか。でも実際に食べてみたら、思っていたものとちょっと違っていた、というのも。
いまからまた米研ぎです。明日のために。