監督の視点を、追体験する 『好きだ、』

なんといったらいいのだろう。久しぶりに刺激的な作品を観たと思います。
最近、暇なときに小津安二郎の作品を少しずつ観ているのですが、古典を知りたいと思うこと以上に、そもそも映画とは何なのかというところがいまだ釈然とせず、その答えを求めようとしていることが、動機になっています。佐藤忠男は小津作品について、小津は役者と対話している、と表現しています。仮に小津作品が、面と向かった対話であるならば、石川寛監督のそれは、どこか近くで対話を観察する、という感じになるでしょう。
たとえば市川準監督にも同じことが言えると思うのですが、しかしそこで疑問となったのが、その観察が定点観測であるとして、カメラのパンが、それにふさわしいかどうか、ということでした。石川監督はその答えを見せたように思いました。目は定点にある。そこから、動くもの、動かぬものを、じっと見つめる。
もっといえば、監督が見たいものは、はじめから決まっている。だからその通りに演じるように命じることはできるのだけれど、監督はそれをしません。あくまでも演者が、その姿に自ら到達するのを、待ちます。気の遠くなるような作業だと思いますが、なんだか、早撮りが流行するなかで「早けりゃいいってもんじゃない」と自らの手法を崩さなかった小津が重なって見えるようです。
高校生の時分の言えそうで言えなかった思いを、17年後にも、やっぱり言えそうで言えない。前半と後半に分けて、2組の演者(宮崎あおい瑛太永作博美西島秀俊)が同じ役に扮します。このキャスティングが、あまりに見事にはまっていることに、ただ驚かされます。それは演出力の魔術であると同時に、計画段階からの監督の目がいかに確かだったかということでしょう。脇役の小山田サユリ野波麻帆大森南朋加瀬亮といった面々も、その「色」にまったくそまりきっています。
さらに言及しなければならないのが、光の使い方なんですね。シーンのほとんどがそうなのではと思うほど、逆光が多い。だから、登場人物がシルエットのようになってしまうことがあるのですが、北国の弱い光と青春の孤独さをうまく演出しています。監督自身、北国の人ですが、逆らわずに撮影する度胸はすごいです。
序盤、このまま2時間が過ぎていつたらどうしようという不安に駆られますが、心配無用です。僕が言うのもなんですが、カップルで観に行く映画だと思います。