冬が、はじまる 『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

終末観念のすっかり失せた現代、そしておそらくは同様の2015年(作品の舞台)にあっては、終末を自らの手によって決断するしかない。作品中に登場する、あくまで個人的な自滅意識の増長によって自殺をひき起こす「レミング病」は、自然現象か、はたまた国家の陰謀か。しかしそれは語られない。大きな問題ではないことが、やがて語られた、と僕は理解している。でも正解でないような気もする。それは後述する。
さて、最後の台詞はハナ(宮粼あおい)のナレーションだ。「もうすぐ、冬が来る」。
レミング病の患者である彼女は、祖父に連れられて、ある音楽家2人のもとにやってきた。彼らの音が症状を和らげるといわれていた。しかし真意のほどは定かでない。そもそも科学的でない。大事なことは、彼らの音にあるのではなく、生きようとするかどうかの心理的部分にあったのだ。
この病にかかると死にたがるが、死ねるかどうかは本人の決断次第らしい。死ぬのが怖いのは、生きようとしている証拠だ。生きようとしている限り、死なない。彼女は生きていくことにしたのだろう。
撮影の多くが北海道で行われているが、それを示す映像はない。しかし黄色く染まったカラマツや鈍い青の海を見るにつけ、冬の厳しさを容易に想像できる。生きることにした彼女に、その冬が訪れようとしている。レミング病が治癒したわけでも、流行が峠を越したわけでも、15%と紹介された失業率が改善されたわけでもないのに。「冬」は社会の隠喩だろう。
社会は冬だ。氷河期だ。希望とはいったいどこにあるのだろうか。実はこの作品を友人の堀さんと観たのだけれど、お互い、働くことの正義感もなければ、会社を追われたとしても落胆もないだろうということを再確認した。いわばドロップアウト願望と呼ぶべきものなので、まったく誇れるものではないのだが。もしもこれがレミング病のせいだとしたら、ウィルスなんて現代人にとっては、ビフィズス菌みたいなものに違いない。
たとえばどうだろう。ドロップアウト願望を抱えた天下無敵のアイドルがいるとして、そばにお宝写真を狙う記者が潜んでいることを知りながら、迂闊を装って煙草を吸うということが、あるかもしれない。生々しいね。大事なことは、生きようとするかどうかだ。「死ニ方用意」という言葉があるけれど、「生キ方用意」と表裏一体なのかもしれない。
最後に、僕の理解の是非についてなのだけれど、あくまでこの作品の主人公はミズイ(浅野忠信)であって、彼と彼の音楽に関する作品なので、僕がこれまで書いてきたことは、妄想と脱構築のどちらともつかない部分なのだと思う。
それに、音に関する言及は必須だ。お世辞にも快適な音とは言いがたいけれど、言葉以上に音が語る作品と思われる(正直なところ、断言できるほど自信がない)のだが、あいにくテアトル新宿のスピーカーはスクリーンの後ろにしかない。ハナが広大な牧野で音楽を聴くように、僕たちも5.1chで体感する必要があった。しかし、だからといってもっといい感想が書けるというわけではない。撮影といい照明といい、すごく好感度は高いのに、なにを書いていいのか分からない。僕にとっては、そんな作品だった。まいったね。