美しさときれいさの違いは 『博士の愛した数式』

博士は言う。数学にもっとも近い職業は農業であると。僕は学生時代、農学部で6年間を過ごした。数学は哲学に近い学問だと思うけれど、僕が在籍していた林学もまた、農学でもっとも哲学に近かったように思う。
僕が大学院生のころの話だ。ほんの数人での、ランチミーティングのような講義の最中、師匠が問うた。美しいということと、きれいだということとは、どう違うのだろうかと。おそらく正解はないのだろうけれど、師匠の解釈とは次のようなものだった。きれいだということは、整っている、狂いのないものである。一方で美しいということは、とにかく感覚的に、なぜか感動してしまうようなものなのだ。きれいだからといって、美しいとは限らない。
博士が愛した数式は、見た目の美しさもさることながら、意味の美しさにおいても優れていた。ただし、美しさに対する解釈は十人十色であるし、僕のような保守的な立場からすれば、生い立ちに規定されると考える。だから大きく言えば、日本人には日本人の解釈する美しさがあるということだ。
作品に散りばめられたいくつもの定理や数式は、やがて博士によって哲学へと紐解かれる。もちろん、数式や発見の多くは西洋人が見出したものであるものの、それらがもつ美しさは日本人ものだ。そしてもうひとつ、博士の記憶は、80分しかもたない。それはとても儚い。無常と表現しても構わない。日本人の思う美しさは、この無常というものと深くかかわっている。さらに、博士の思い出が何年も前でとどまっているというノスタルジーも加味されて、観る者にとって完璧な構図といって過言ではない。
しかしどうだろう。普段われわれが、その美しさに直面することはあるだろうか。あるいは、美しく生きようとしたことは。では、この作品はただのファンタジーに過ぎないのだろうか。その着地点に収めたくないのでこうして感想を書いているのだけれど、身につまされるばかりである。
ところで手法として、カメラのパンが非常に多いのだが、興味深いのは、この手法が決して美しく感じられないということだ。カットの転換や切り方においても、これといって感じる部分がない。それはおそらく監督にとって、カメラは視点なのではなく、記録だということなのだろう。つまり、観客が監督とともにスクリーンと対話するのではなく、スクリーンにあるがままを解釈するということだ。それはどちらかといえば、「きれい」の範疇だと思う。
鑑賞中、『金髪の草原』や『父と暮せば』を思い出していた。設定が前者に、演出が"なんとなく"後者に似ている。この作品にも後者のような、二人芝居のような要素をより多く盛り込めば、"なんとなく"存在するばらつきを防げたのではなかろうか。そんなふうに感じてしまうのは、深津絵里浅丘ルリ子の波長が、あまりにも異なっているためなのだ。それぞれのキャスティングが完璧なだけに、"なんとなく"悔やまれる。