生き急いだとすれば救いなのだけど 『疾走』

今日、社会人になって初めて、寝坊をした。目覚まし代わりにしていた携帯電話が故障したのだった。しかし、いままで味わったことがないほど、清々しい朝となった。上司に叱られなかったせいもあるにせよ、なんとなく、自由をひとつ獲得したような気分で、一日を過ごした。
中学生をテーマにした悩ましい作品は、過去にもいろいろあった。小学生には意味の分からない不幸が、中学生には分かる。分かるがゆえに、大人の力に屈したとき、あるいは大人の無力に直面したとき、心の傷は深い。逃げられないのだ。いじめる父親よりも、逃げられないようにしている母親が憎いと、ヒロインの少女は言う。
主人公の少年の成長していく様子を、本人の声をつなぎとして、はじめは兄が、その後は神父が語る。神父をはじめとして、主人公の見方がほんのわずかだけいるのだけれど、必ず彼の元を去る。いや、去ったのは彼のほうかもしれないけれど、救いを求めようとする彼からすれば、裏切られたと感じても無理はないだろう。
そんな、ただでさえ救いのない物語を、ひたすらまっすぐ、真正面から捉える。その映像は強い。僕はひたすら胸を締めつけられる。また、同じ生い立ちが同じ結末を生むように感染していく、保守的な捉え方が作品をずっしり重くしている。わずかな救いと結末を思えば、それにすがることで深呼吸を得られるけれど。ラストシーン。ひまわりと青空の幸福からひとたび外に目をやれば、広い広い荒野が捨てられている。その虚しさが辛い。
実は、SABU監督の作品を、このたび初めて観た。映画がもつ映像の重さを、安心とともに感じられた。まさに映画屋さんだ。