空間描写、芝居、トニー滝谷

昨晩、我が家で小さな飲み会があり、なかのひとりが「優しい時間」を見たいというので、ぼんやり眺めておりました。十数話あるうちの一片しか見ていないにもかかわらず、つくりの贅沢さや脚本、演出のにくさが感じられ、倉本聰がいなくなったテレビにはたいへんなことが起こっていたのだなと思いを致す羽目となりました。まだ生中継でドラマを制作していたころの雰囲気というのは、こんな感じだったのだろうかと。映画やテレビドラマが、演劇の世界から遠く離れつつあったことを危機として迎え入れられたとしたら、僕はそこに韓国の影響を捨てきれないだろうと思います。
市川準監督の一連の作品群のなかで、「トニー滝谷」がどのような位置づけにあたるのか、それを決めるのは難しいと思いますので、これは後々の課題としますが、濃密な市川節を展開しつつも、空間美術的な要素を強く押し出した点で、非常に新しいものでした。というのも、CMディレクターでもある氏の作品は、たしかに空間美術的な部分を強くもってはいたのですが、どちらかというと人物描写の側面がより前面にあるという印象のほうが強かったと思うのです。「大阪物語」の池脇千鶴にしろ、「東京マリーゴールド」の田中麗奈にしろ、「作りこまれた自然体」という所作をカメラがやさしく追いかける、というのが大きな魅力であったろうと。その意味では、今回はまるで違いました。
公式サイトを見てもわかるのですが、この作品は、イッセー尾形宮沢りえ、それにナレーションの西島秀俊のほぼ3人の芝居であって、もちろんほかにもたくさんの登場人物が登場しますが、彼らはみな風景でしかありません。もとよりこの作品、尾形も宮沢も1人2役なので、舞台作品のような様相を見せており、映像技術が映画らしさを演出している、といってもいいほどです。
宮沢りえ、舞台のような、というと「父と暮せば」を思い出さずにはいられないのですが、あの作品は映像技術を敢えて抑えておくことで、より舞台の雰囲気を前面に出していました。しかし「トニー滝谷」の場合は、あくまでも映画でして、ロケ地もいくつかありますし、新しく手を組んだカメラマンの独特な映像が、市川節に新たな風を吹き込んだとさえ言えます。カメラが横に静かに移動し続ける、というシーンがたくさんあるのですが、あれはカメラを固定するという技術の延長で、人物描写より空間描写という映像美を確立するためには必要不可欠なものだったのだろうと思います。坂本龍一による一貫した音楽も、その大いなる助けとなっています。
ただ、助けは助けでしかなくて、やっぱり尾形と宮沢の演技のよさが、フィルムを作っていました。よい、といっても生半可なものではなく、彼らによる演技でしかありえなかっただろうと思うほどです。彼らの名演技を見てしまうと、いままでどれだけ多くの大根役者を僕は肯定し続けてきたのだろうかと、正直に言ってそう思います。そして、劇中のトニーがそうであったように、彼らがいなくなってしまったら、日本の映画界はどんなふうになってしまうのだろうと、かなり不安になりながら作品を観てしまいました。
ここまでストーリーについてはなにも述べてこなかったのですが、この点は「東京兄妹」にも似て、やはりストーリー描写がメインになりえないので、非常に市川的で、短い時間なのに非常に長く感じられる展開となっています。という表現をどう解釈されても自由ですが、寝不足で映画館に行くと危険だということは忠告しておきます。しかし、珍しくスクリーンが主張している作品ですので、万全の体制で真っ向勝負をしながら鑑賞してはいかがかと思います。僕は、監督がこの作風を見せてくれたことを本当にうれしく思っています。日本映画界に市川準あり、といったところです。
(追記)鑑賞代、1500円。