カフェの女子はキュート

映画がはねたら、もうずいぶんな時間だ。とぼとぼ歩いて、本屋に入った。24時間営業の本屋というものが、この国にはある。日本にないのは教養への投資が足りないからなのか、非効率なことを悟ったからなのか。
ここで、妹への土産にクリスマスカードを購入。こうやって遠くに来ると、土産物を間違っては取り返しがつかないから、メモ帳には、あげる相手を逐一記入してから出国した。これがまた、けっこうな人数なのである。
それから、世界の国々を紹介している本を購入。これは自分用。学校教育用なのか生涯学習なのか、なぜか目立っていたのでついつい手に取った。元来の地図好きである。中国に旅行したときも世界地図を購入した。実になんでもない本なのだが、ロシア語で、ロシア人の感性で作ってあるのがいい。読めないが、地図と国旗は分かる。
касса(カッサ、勘定場のこと)で500ルーブルを出したら、会計の娘になにか言われた。分からないでいたら、後続の客と目配せして笑った。こういうところがかわいくない。見た目はちょっとかわいいのに。どうやら、もう少し細かい金はないのかと尋ねたようだった。あのカフェと同じだ。で、あらためてポケットと相談したら、そこそこになったので、それで支払った。

(世界の国々を紹介している本。日本を紹介しているページ。なぜお札が。)
清算してバス停に着いたら、雪が降っていた。なのに本屋は袋をくれなかった。なんてエコなんだ。夜の街はこんなに輝いているのに。
バス料金は18ルーブルであると判明した。予想してきっちりをおばさんに渡したら、ちゃんと切符を切ってくれた。この国のバスのおばさんは、安らぐ。ただし、バス停にあった行き先表示が、あまりに高いところについていて、ド近眼の僕には細かい字が読めない。背が低くて悪ぅございましたね。ロシアサイズなんでしょ。そういえば、ロシア美術館の小便器のなんと高いこと! 便器の下が僕の股下の位置と一致した。男性諸君は、その状況で身体がどうなるのか、想像してみていただきたい。


(写真が少ないので、ロシア美術館天井コレクションをどうぞ。)
バスを宿の近くで降りて、チェーン店っぽい雰囲気のカフェへ。この街はカフェ天国である。でも一言で言っても、カフェにもいろいろある。高くない飲食店全般を指す言葉と思ったほうがよいかもしれない。そのカフェで、シベリアンなにがしというビールを注文。なんとなくビールを飲みたかった。日本人の性か。
カフェの入り口近くに座ってしまったので、妙に寒かった。そのせいもあり、早々とウォッカに変更。ロシアンスタンダードなる銘柄を100мг(ミリリットル)。だんだんメニューの見方が分かってきている。ウォッカの量の階級もいろいろで、最低が50ml。次が100ml、0.5リットル、その先はまたさまざま。でも0.5リットルのウォッカは倒れるなあ。
どうでもいいが、このカフェの店員の女子たちがキュートだ。まさに「キュート」な「女子」がいる! なかにひとり、すんごくかわいい子を発見。で、その子がほかの女子とハグしたりおんぶしたり! カフェで「キュート」な「女子」がハグしておんぶするんだよ。女子同士ってきゅんとする。あの光景を見るためだけにもういちどここに来たい。でもメニューが乏しいんだよ。地元っ子にはウイスキーとかカクテルとかがあるのでいいみたい。
宿に帰ってきた。いないなあと思っていてダムが、10:30か11:00ごろに戻ってきた。どこをほっつき歩いていたのかは不明。ただ、クンストカメラをふたたび訪れて堪能したらしい。ダムから、明日の晩に飲みに行こうぜとお誘いを受ける。それはいい。こう見えて僕だって日本ではロクでもない呑兵衛なのですよ。ただし問題は、この英語のリスニング力なんですけど。

(女子の写真は勇気がなくて撮れず。左は僕のベッド。このときはまだウォッカが残っている。右はダムのベッド。上は居留地、下が寝床。2人分支払え。)
昨日買って来たウォッカがすでに空っぽになってしまった。ちびちびやるはずがおかしいなあ。隣の部屋のヨーロッパ人の家族はもういなくて、替わりに韓国人がいる。ああ、肉食のダムの体臭が襲ってきた。
1月3日はおしまい。

石井裕也、かく語りき 『川の底からこんにちは』

話題に欠かないことは知っていたが、この監督の作品を初めて観た。初の商業映画にして、すでにものすごい経歴の持ち主である。もうひとつ言えば、安藤モモ子同様、ついに年下に監督が現れたなという感慨もある。
すごいものを観た。なんだこれ。監督はなんでこんなに世の中が見えているの。嫌らしさがなく、すっ
と頭に入ってくる。シュールをいたずらに遊ぶでもなく、人生を語るでも、雰囲気で流すでもなく、ナンセンスで笑って、最後は「頑張るしかない」だもの。どんな生き方をしたら、あんなふうに世の中を見られるようになるんだ。
先日テレビを見ていたら、西原理恵子が「負の波」について語っていた。彼女曰く、人生における負は連鎖する。それを断ち切ることのなんと難しいことか。無論、人生における負の連鎖は、社会におけるそれでもある。お金があってもなくても、モノが安いことは嬉しい。しかし、モノを安くするために賃金が安くなり、それがゆえに安いものしか買えなくなる連鎖を断ち切ることは、あまりにも困難である。
石井監督は、「負の波」とは別の観点を提示する。どうせみんな中の下、普通よりちょっと下で、それでも生きていかないと、と説く。「ここにいること」と「それでも生きていくこと」を思うことは、この十数年の哲学の一種だろう。年下とはいえ監督も、多感な時期を、崩壊した国のなかで送ったひとりだ。その国のなかでは、希望通りに開く未来は乏しく、最低限分かることに頼って生きていくことになる。そのなかで見出した生き方なのではないか。しかし、それは希望か?
少なくとも、狭い世界観をぶち破る、自意識をぶっ飛ばすという意味で、西原より後の世代を表現し、代弁し、ときに批判できているように思う。前向きに生きるのは難しくても、周囲を非難してばかりでは進むものも進まない。それは分かっていても、体現することは容易いことではないのだ。
それにしても、シジミのパック詰めと肝硬変の社長など、アイデアに溢れている。圧倒的な脚本。園子温以来の衝撃だった。そして満島ひかりはいままででいちばんよくて、いちばんかわいいかもしれない。余人をもって代えがたし。なんでこんなんで泣けるのか。いろんなものを通り越して、もう悔しくないぐらいやられた。

もののふは歓喜の歌を聞くか 『武士道シックスティーン』

全国公開されているのだから、たとえテアトル新宿でも混雑しないだろうと思っていたら甘かった。満席にはならなかったが、こんなに集客できる映画だったんだと思い知らされた。
成海璃子北乃きいは、おそらく初共演だ。それぞれにそれぞれの持ち味があるので、共演というのは、時折とんでもない失策を生む。それがプロの仕事かと思うものの、推測だが、監督にはあらかじめそのことが見えていたのだろう。ひとつの土俵で四つに組ませたという意味で、監督のプロの仕事を見た気がした。
どこまで原作に忠実なのかは分からないが、役者としてのふたりの合わない波長は、スクリーンに剥き出しになる。ふたりの波長は長らく合わない。自分の力で進む「剛」の成海と、空気で演じる「柔」の北乃。寄り添う柔、撥ね付ける剛。それがストーリーとして見事に進むものの、交友の後もきれいな和音が響かない。
監督は成海を試すように撮る。ふたりの演技の程度には各論あろうが、北乃が、平凡でも他者との間の空気を表現できる演者である一方で、成海は、天才でも自らが発信しなければならない演者だ。監督は調和を求めた。かつて古厩監督は、『奈緒子』では上野樹里三浦春馬の調和を求め、『さよならみどりちゃん』では見かけだけの調和に無意味のレッテルを貼った。今作でも、終盤までひたすら調和が訪れるのを待つ。放置する。やがて成海はスクリーンから遠退く。
しかしストーリーにおいて、ふたりは不協和音でも、単体ではあり得ない関係になっていたことを示す。やがて転機は訪れる。一騎討ち。武蔵と小次郎。このやりとりで、ついに波長は現れる。そこまで焦らすか。まるで西荻早苗(北乃)の勝負のように、一点のチャンスに突く。
古厩監督の作品はクラシカルだと思う。ベートーベン第九の、合唱を待つ心情。最後の楽章の、合唱はさらに最後だ。みんなそれを楽しみに、最後まで演奏を聞く。合唱を聴く覚悟を決めるまで、ベートーベンは譜面をめくらない。その心情である。調和の瞬間、鳴海はいい顔をする。阿吽で付き合う北乃。ふたりの関係は変わる。そこまで待つ優しさ。それが古厩映画だ。

プロンク博士

かれこれ8ヶ月も旅行記をサボっていて、書いている本人さえもがサボタージュを忘却していたのに、ある日「つづきは?」と聞かれた。奇跡だと思った。そして当時の日記を読み返してみた。記憶で補完して読んでいた乱雑な字の解読が、若干危うくなっている。いかん、進めなくてはならない。
クンストカメラなる博物館が閉館時間を待たずに営業を終了して途方にくれた僕は、バスに乗って映画館に向かった。空港で訳も分からず1000ルーブル札を握り締めて乗って以来だが、あれは乗れたうちに入らないだろうから、考えて乗った初めてのバスだ。意外と簡単だった。つまるところ、整理券も料金表もない。車掌のおばさんに、こんなもんだろうという金額を渡せば、お釣りをくれる。料金は均一だ。地下鉄の切符売り場といい、この国は非自動がたくさんある。旅行者にはありがたくもある。
レストランのお姉さんお勧めのシネコンに着いた。シネコンらしく、チケット売り場には、上映作品を映すモニターとタイトル、時間が表示されている。せっかくなのでロシア映画を観たい。当てずっぽうだが、ビバヒル風の青春映画「Стиляги」のチケットを買おうと、タイトルと時間をノートに書いてカウンターの人に見せたら「ニェット(ない)」とにべもない答え。それが売り切れなのか、面倒くさい客だから売らなかったのか判然としなかったが、ためしに並びなおして別の作品を告げると、それは買えた。先ほどは満席だったようだ。


シネコンの入り口まではポスターがずらり。そしてゲームセンターのような玄関。
観たかった映画のチラシほか。そして貼ってあったポスターの画像を入手。どっちが本当のストーリーだ。)

上映開始まで時間があるので、近所のカフェでひと息だ。ショーケースがあるのがありがたいが、あまりに種類豊富で、指差すだけでは間違いなくストライクしない。なので、端っこにあったピザと、アメリカンコーヒーにした。アメリカンにしたって、理解できた数少ない飲み物であった。
トレイにおかずを載せてぞろぞろ歩く形式なので、食べ物と飲み物を確保したところで会計だ。ここの会計のお姉さんは、細かいお金がないと舌打ちしてくる。ものすごく嫌がられた。この国に来て最大限に嫌われたと思う。120ルーブルのところを150ルーブルで支払っただけなのにだ。そしていま、怖かったのと悔しかったのとをないまぜにして、日記を殴り書きしている次第。

(チケットには、"5階6番シアターにて18:35より、大人300ルーブル(1200円ぐらいか)"と書いてある。たぶん。そして右は、なんとか買った軽食。)
さてふたたび映画館である。それにしてもこの国に来て大きな発見といえばクロークだろう。酷寒の地ではどこに行くにも厚手の上着が必要だ。だからどこに行ってもクロークは発達している。トイレと同じ数だけクロークがあると言っても過言ではないか。ちょっと言いすぎか。映画館でもクロークにコートを預ける。
シネコンなので、スクリーンがたくさんある。どうやら階段を上っていくと、いろいろなスクリーンがあるらしいのだが、僕の観る作品がどこにあるのかまったく分からない。2階にいたスタッフのお姉さんに尋ねてみた。といってもチケットを見せることしか出来ないけれど。お姉さんはさばさばと、しかし明るく「4!」と指で示してくれた。笑顔で。4というのはヨーロッパでは5階のことをいう。思わず「スパシーバ!(ありがとう)」。そうしたら「どういたしまして!(と言ったに違いない)」。
親切ついでに、そのお姉さんにトイレの場所も聞いたら、近くまで連れて行ってくれた。なんと親切なことか。さっきのカフェの人とぜんぜん違う。あの恐怖のすぐあとにこの笑顔である。タイプじゃなくても可愛く見えてしまうというものだ。
作品はロシアのものと期待していたが、違った。作品の名を「Доктор Плонк」という。予告編がモノクロだったので、てっきり新文芸坐のような旧作かと思ったら、オーストラリアの新作で、原題は「Dr. Plonk」だそうだ。
科学者のプロンク博士と奥さんと助手(バカで間抜けでお調子者)と犬。博士がある日、地球最後の日を計算したら、2008年だった。首相に掛け合っても、証拠がないので取り合ってくれない。そこでタイムマシーンを思いつく。そしてあっさりと完成。実験を経て100年後の世界に飛び立つのだが、未来は続いていた。最後は博士と首相が元の時代に戻れず、2007年に拘束されてしまう。

(「Dr. Plonk」の予告編を発見! なつかしい。)
ものすごいドタバタだけれど、サイレント映画なので、ロシア人でなくても、あるいは英語の分からない人でも、ストーリーがよく分かる。そして面白い! アクロバティック! ケタケタ笑って観た。お客さんは7人。決して人気はないようだけれど、日本でも公開しないだろうか。とにかく大満足。この映画館には、時間があればまた行きたいと思った。