もののふは歓喜の歌を聞くか 『武士道シックスティーン』

全国公開されているのだから、たとえテアトル新宿でも混雑しないだろうと思っていたら甘かった。満席にはならなかったが、こんなに集客できる映画だったんだと思い知らされた。
成海璃子北乃きいは、おそらく初共演だ。それぞれにそれぞれの持ち味があるので、共演というのは、時折とんでもない失策を生む。それがプロの仕事かと思うものの、推測だが、監督にはあらかじめそのことが見えていたのだろう。ひとつの土俵で四つに組ませたという意味で、監督のプロの仕事を見た気がした。
どこまで原作に忠実なのかは分からないが、役者としてのふたりの合わない波長は、スクリーンに剥き出しになる。ふたりの波長は長らく合わない。自分の力で進む「剛」の成海と、空気で演じる「柔」の北乃。寄り添う柔、撥ね付ける剛。それがストーリーとして見事に進むものの、交友の後もきれいな和音が響かない。
監督は成海を試すように撮る。ふたりの演技の程度には各論あろうが、北乃が、平凡でも他者との間の空気を表現できる演者である一方で、成海は、天才でも自らが発信しなければならない演者だ。監督は調和を求めた。かつて古厩監督は、『奈緒子』では上野樹里三浦春馬の調和を求め、『さよならみどりちゃん』では見かけだけの調和に無意味のレッテルを貼った。今作でも、終盤までひたすら調和が訪れるのを待つ。放置する。やがて成海はスクリーンから遠退く。
しかしストーリーにおいて、ふたりは不協和音でも、単体ではあり得ない関係になっていたことを示す。やがて転機は訪れる。一騎討ち。武蔵と小次郎。このやりとりで、ついに波長は現れる。そこまで焦らすか。まるで西荻早苗(北乃)の勝負のように、一点のチャンスに突く。
古厩監督の作品はクラシカルだと思う。ベートーベン第九の、合唱を待つ心情。最後の楽章の、合唱はさらに最後だ。みんなそれを楽しみに、最後まで演奏を聞く。合唱を聴く覚悟を決めるまで、ベートーベンは譜面をめくらない。その心情である。調和の瞬間、鳴海はいい顔をする。阿吽で付き合う北乃。ふたりの関係は変わる。そこまで待つ優しさ。それが古厩映画だ。