2月最後の3本

なかなかいいペースで映画を観ている。先日の上映会での旧作を除くと、今年14本。ふたたび年80本に到達できる数字ではある。ただし、ほかにすることがないことの証左でもあって、いいのかこれで、と思わないわけではない。それにしても趣味でこれほど長続きしているものがあったろうか。
次の週末は訳あって映画館に行けないので、今月はこれにて終了。無理を押して3本観ただけの甲斐はあった。

まずは、『人間失格』である。

荒戸源次郎監督と言えば『赤目四十八瀧心中未遂』。あのゴツイ映像世界はなかなか忘れ難い。主人公が「ずいずいすっころばし」を歌いながら、西日のきついがらんとした四畳半で肉を串に刺すシーンと、あとはひたすら内田裕也の存在がすごかった。
今作もあの映像の世界と演出は残っているけれど、あのときのゴツさを感じなかったのは、ただ慣れたからというわけでもあるまい。そこは生田斗真なる男を将来の見境なく汚すわけにいかなかったということは、ないわけはない。彼には美しく墜落していく義務がある。
その意味では見事で、観客たる醜男からすれば、ただただ拝むしかないのであった。男の強烈なまでの引力は、老いも若きも一瞬で地にへばりついてしまう。そこになぜか納得できてしまう。
ただ、映像にするのがいかに難しい原作なのか、観ていて気付かされてしまう。次から次へと女性との交わりがあるのだが、そのどれもがチャプターになってしまう。そしてすべての女性を描写してしまうと、2時間では圧倒的に足りない。石原さとみの汚れたところをもっと見たかったなあ。というあたりも、そういうわけにいかないのであって、このぐらいの尺で収めないと、なにかと危険な沙汰がある。その意味でも成功しているのだろうか。
ところでどうして劇場はガラガラだったのだろう。映画館は大きなスクリーンを用意して待っていたというのに。ファンが詰め寄る特別なスクリーンがどこかにあったのだろうか。

そして吉か凶か、『コトバのない冬』

渡部篤郎が監督をする、というと、どうしても『緑の街』を思い出す。その映画のなかで彼は、初メガホンを取るミュージシャンを演じた。彼は、陰りの見えた女優にして昔の恋人を強引に主役にして、未練たっぷりの私小説を展開する。
もっとも『緑の街』は小田和正の監督作品である。しかしイメージはついてまわる。それはどうしてかと問うのも野暮である。今作の主演・高岡早紀があまりにも美しく、かわいいのである。渡部篤郎は撮りたかったのに違いない。劇中の会話があまりに雑多で恣意的な感じがないものだから、どこまでが高岡早紀で、どこまでが黒川冬沙子(役名)なのか、区別をつけられない。
いっそ端から区別を諦めてしまおう。ああ、このしゃべり方。A型に違いない。なにも捨てるものがなくて、いつでも捨てることさえできるなら、いちどは堕ちてしまいたくなる。そう、きっと男はダメになる。男をダメにするか、ダメな男についていくか。それにしてもこのかわいらしさはほかに代えがたい。
声の出ない男と出会い、思いがけず関係が終わる。その間にある、物語の本流と交わらない会話の数々。よくしゃべるおばさん。それらは、恣意的でさえない日常であり、声のない世界との対比でもある。そのことは、ラストになって初めて気付かされる。
手持ちカメラでぐらんぐらんするが、ヘタウマを作っているというか、編集のよさもあってあまり苦にならない。ブルーシートをあんなに美しく見たのは初めてだ。ただし、北海道を生きる者の所作に多少の東京っぽさを捨てられなかった点は、映画とは関係なかろうが、どうしても気になった。

最後に、ノーミスの3回転ジャンプ 『パレード』

ベルリンで賞を取ったせいか、びっくりするほど客がいた。ひとりでも多く劇場に足を運ぶことはけっこうなことだけど、ほかにもいい作品があることにも気付いてほしい。
いやしかし、予想していたよりもずっと、ざらついた、それでいて整然とした作品だった。こんなことを言っていいかどうか、ちょっと行定勲とは思えないスマートさがあった。やっぱり失礼か。『世界の中心で、愛をさけぶ』以来の面白さだと思う。
なぜこんなに面白くなったのか考えてみたけれど、やめた。まぐれではないけれど、すべてにおいてうまくいったのだとしか表現のしようがない。
まず、脚本がいい。監督がひとりで書いたのだそうだ。どこといわずスマートなのだけれど、とくにサトルが初めて出てきたときのシーンがいい。あるいは、「みんな」について幾人かが語るシーンも、さりげなさと印象深さが同居している。
そして、キャスティングと演出がいい。サトルの金髪をはじめとして、それぞれが記号として成立しつつも、有機的または無機的な結合を遂げている。ぴたりとはまっている。誰かがひとり秀でていてもいけないし、ひとり劣っていてもいけない。その均衡が、フィクションのなかにある均衡と、訪れる不均衡と一体化している。監督冥利に尽きただろうが、観客冥利にも尽きる。
そしておそらくは、とても日本的で現代的な作品なのだ。いたくなければ去ればいい、いたければ笑っていればいい。均衡をどこで保つか分からなければ、もっとも表層で保っていればいい。それに耐えられるなら。これも才能だと思うが、無産的な才能である。良介が感じるループした時間は、この均衡の産物にほかならない。
無産でけっこうな、たまにしか会わない関係ならばそれでもかまわないし、そうあってほしいこともある。しかし、毎日同じ空気を吸っていて、この関係というのは、破滅よりも残酷な感じがする。いったん不均衡が訪れたら、飛び込むか逃げるかしかない。たいていは逃げるだろう。日常的にそれを見ているアタクシからすれば、身につまされてならない。
ところが作品では、不均衡で関係が崩壊すると思いきや、目に見えない第二の均衡の金脈を引き当てる。これは大逆転であるが、ハッピーではない。ただし、破滅より残酷な関係に比べれば、いくらかは破滅的で有機的なのか不思議である。