今年は序盤から秀作揃い 『今度は愛妻家』 『BANDAGE』

いまわたしから映画を取ったところで、新しい趣味が生まれるでもなく、ただ酒量が増えるだけだということにようやく気付きました。今日は休肝日です。そんなときはみかんを持って映画館に行って、2本観るというのが正しいようです。そんなわけで本日は上記の2作。
今度は愛妻家』は行定勲久々の新作。わりと好き嫌いがはっきり分かれるタイプの作り手のようですが、僕は作品によって好き嫌いが極端に分かれます。『ひまわり』『世界の中心で、愛をさけぶ』『遠くの空に消えた』は好きなのですが、『北の零年』『クローズド・ノート』はダメでした。そして今回は、好きな作品でした。よかった。
もっとも演出よりも、脚本にやられたのかもしれません。原作も粗筋も知らず、予告編だけの印象で劇場に飛び込んだら、気持ちよく騙された感じです。ここでとやかく書かないほうがいい筋でしょうが、男としては非常によく分かる情けなさですね。本当に好きな人を忘れるための時間は、好きになるための時間と反比例してしまうのかもしれない。愛情の深さといえば聞こえはいいですが、厄介であることは間違いありません。
その厄介さを観客が受け入れるタイミングが、僕にはうまくいっているように見えました。ただし、話の閉じ方に甘さがあります。まるで清算するかのようにきれいなハッピーエンドに、共感を持つのはちょっと難しい。
さて。『BANDAGE』はまさに岩井俊二テイストの作品。同じプロデュース作の『ハルフウェイ』よりいっそうその色彩は濃いように感じられます。しかし90年代前半をある角度から切り取った作品として、着目すべき作品ではないかとも感じるのです。劇場は学校帰りの高校生ばかりだったが、どちらかというと30代ぐらいの人びとのほうが面白く見られるんじゃないか。ヤフーの映画評がひどいのは、観てる人と面白がる人にギャップがあるせいではないかと。
舞台はパソコンと携帯電話が普及する少し前の時代。ラジオと雑誌のヒットチャートがまだ本来の意味を持ち続けていた時代。思うに、90年代前半は、神様の存在を信じられた最後の時代だったのかもしれません。劇中のバンド「LANDS」のメンバーが、自分たちはフォークでもニューミュージックでもないと言っているにもかかわらず、いまにしてみれば、さだまさしの『雨やどり』の世界のなかで生きていたのでしょう。
作品が当時をリアルに再現したものではなく、メイクや小道具にいまらしさが残ります。そのため、イカ天を想起させる話題や、フィッシュマンズでようやく、時代を規定できます。わたし自身はこの時代のちょっとあとの世代です。あのころはフィッシュマンズもコレクターズも、よさがまったく分かりませんでした。
しかし同時のバンドブームが終焉し、なお生き残ったバンドが極めて少ないことは知っています。つまりLANDSは物語のはじめから、束の間の絶頂と凋落を突き進むことがあからさまになっています。この作品は、バンドの栄枯盛衰よりも、アサコとユカリとミハルの青春群像劇として観るほうがいいのでしょう。
アサコがLANDSから離れて2年後の世界と、それまでの世界との対比がおもしろい。もうLANDSがあれからどうなったかを話題にしさえしません。時代が変わったのです。型は大きいが携帯電話があって、アサコが手がけるバンドは、コード進行がどことなくスピッツを想像させ、あるいは90年代後半に流行ったスウィデッシュ・ポップっぽい。わたしが中学生ぐらいの時代まで来ました。
「あのころ」、この国はひとつの終わりを迎えました。そして新しい時代がやってきた、かに見えました。作品はここで終わっているけれど、それから少しして震災があって、テロがあって、経済がどん底まで落ちます。「あれから2年後」の音楽を享受していた世代をロスト・ジェネレーションと呼ぶ人もいます。終わりから始まりまでの長い長い時間を、この映画はちょっと見ている。リリイ・シュシュが訪れる、ちょっと手前のころです。
余談だけれど、いま小熊英二『1968』と格闘しています。LANDSのメンバーが生まれたのはちょうどこのころでしょう。闘争が果てて髪を切った世代の子供が、同じような鬱屈と闘うのです。そしてアサコを演じる北乃きいは、「あのころ」生まれた世代。なにか、言葉にはならない因縁のようなものを感じてしまいます。
長くなりました。今年は序盤からこんなに秀作が続いて、この先が持つのでしょうか。とまれ、楽しみな1年です。