新しい朝の迎え方 『トウキョウソナタ』

佐々木家の主・竜平(香川照之)は大企業の総務課長をしていたが、仕事の外部委託が決まった途端、会社で用無しになってしまった。しかし家族にはそれを必死で隠そうとする。妻・恵(小泉今日子)はなんとなしに夫の異変に気付きながらも、「お母さん役」であることに懸命であり続けた。長男・貴(小柳友)は大学に入るも虚しさを感じる日々を送り、次男・健二(井之脇海)もまた担任との折り合いのつかない関係から孤独を味わっていた。ある日、長男が米軍に志願したことをきっかけに、水面下で各々が抱えていた闇が浮き彫りになっていく。
佐々木家が崩壊してしまうのにはきっかけが必要だったけれど、それはきっかけでしかない。それまでの長い長い過程を経てのことである。ただそのきっかけが、長男の米軍志願であり、次男がピアノを習いたいと告げたことであっただけのことだ。彼らの行動は、父親には余りに唐突な出来事に感じられ、その一切を拒絶してしまう。樋口尚文は「唐突なことを排除され続けてきた」人生と表現している。現代システムのたがをはずされたサラリーマンの悲哀とでも言うのだろうか。
たしかに竜平は、近代化の終わりを意味するような存在に見える。彼の失業仲間である高校の同級生・黒須(津田寛治)は、その崩壊に耐えられなかった。貴を含めた3人から、労働と価値の関係性が近代のそれとは明らかに変容していることが分かる。産業構造の変化では、それを証明することができない。
身の回りの世界が雪崩を打ったとき、弱いのは男のほうだ。女は強い。恵は強盗(役所広司)に拉致されたことをきっかけに、家庭からの逃亡(暴走)をおっぱじめる。強盗もたじたじだ。やっぱり彼も耐えられなくなり、姿を消してしまう。逃亡さえ崩壊した恵は、なんと家に帰ってくるのだ。仕方なくではない。決意を持って、である。そして、いろいろあった次男に向かって、おなかがすいたからなにか作る、とお母さんの役目を買って出るのであった。そこに、ダメになった父さんがやってきて、ふたりはそれを迎え入れる。それぞれがそれぞれの卒業式を経て、仕切り直しに家にやってきた。新しい朝である。
ラスト、健二が中学の入学試験でピアノの実技を受ける。ドビュッシーの『月光』は福音のようだ。しかし、健二はいささかはやく大人になりすぎている。大人のように生きていく術を知っている、というほうが正しいかもしれない。彼の人生にはまだ壁がある。ないと困る。そのとき家庭になにができて、なにをしないのか。その余韻がちょっと怖くもある。