『僕の彼女はサイボーグ』のこと、『山桜』のこと

相変わらずスランプ状態なので、気楽に書かせていただきたい。もとよりまじめに書くことを期待されていない、というのは言わないことにして。
どういうわけかクァク・ジェヨン監督が日本映画を作ってしまった『僕の彼女はサイボーグ』。綾瀬はるかのプロモーションビデオだという向きがあるが、間違いではない。僕もそう思う。ストーリーにかなり無茶があるが、彼女を美人だと思える人なら、観ていて飽きない。この作品で彼女の演技力のほどを確かめるのは難しいけれど、サイボーグ役は似合っていた。
サイボーグは空想科学の存在だが、サイボーグみたいな人は現実にいる。重複するがストーリーが無茶苦茶なので、はたしてあのサイボーグの容姿が次郎(小出恵介)の理想を形にしたものかどうか分からない。誰にでも理想はあるものだが、仮に頭で思い描いた完璧に理想的な人が眼前に現れたら(本物の人間でね)、きっと為す術もなく、気難しい人だと思われておしまいになるだろう。その理想の人は、僕のいない世界でケラケラと笑い、楽しく幸せな生涯を送るのだ。サイボーグだからこそ成立した恋愛なのに、あのラストはそれを否定するというのか。
かなりぶつ切りのストーリー構成だが、次郎が失った故郷を訪れるシーンは見ごたえがあった。たぶん、あんな村はない。しかし、韓国が単身でやってきた監督が、ファンタジー化された昭和をあれほど美しく表現できるとは。それから、学校に乗り込んだ暴漢のシーンの小日向文世がいかしてる。底なし沼の面白さだ。ところで、小出恵介というキャスティングは、やっぱりチャ・テヒョンを彷彿とさせる。
話は変わって『山桜』である。篠原哲雄監督作品はずいぶんとご無沙汰していた。いまにして思えば食わず嫌いだったのかもしれないが、こんな売れっ子にもかかわらず、ビデオで観た『はつ恋』以来。劇場で観るのは初めてだった。その主演が田中麗奈だったり、シンボリックな桜の木が登場したりするのは、なにかの縁としか思いようがない。
作品だが、監督に対する僕の先入観は一蹴されてしまった。こんなに物静かで上品な作品になっていることに驚いた。田中麗奈の和装がすばらしいのも、もちろん彼女の演技も、作品のまとまりのよさに見事に直結している。『がんばっていきまっしょい』から10年、いま27歳。同年代ならきっと分かるような、ここまでたどりついて初めて表現できる心境の複雑さが、スクリーンからにじみ出ている。
一方で共演者たちにスパイスが足りないのがやや残念である。もっとも、懐の大きな他人から何かを授かるのではなく、庶民が庶民然としたなかで、ひとり静かに身を処すというのが藤沢文学なのかもしれない。多くを語らず、求めない脚本がまたいい。とくに終幕のさせ方には唸る。
藤沢文学といえば山田洋次と相場が決まっている。彼の作品は故郷探しの意味合いが強いので、土地の名や方言を多用する。その一方で、今作は方言を用いず、どこか雪国であること以外語られることはない。時代劇はリアリティを求めるものではない。そういう意味では、「どこか遠くの土地」という誰でもリンクできる設定のほうが、本流に近いところにいるのかもしれない。
SFと時代劇。どちらもあまり得意としない分野なのだが、それはそれで身につまされてしまった。最近、何を見ても何を聞いても身につまされて困っている。『山桜』のコピーは「幸せへのまわり道」。サイボーグのような人に出会ってしまったら、いったい何年回り道をすれば幸せになれるのか。そして僕は、いったい何を書いているのか。結論の出ない話である。