映画と非映画の間はなにか 『大日本人』

粗筋を明らかにしないという商業的理由があるようなので、(書くほどの筋もないので)省略する。
巷で賛否両論吹き荒れる作品である。大日本人を名乗るが小市民という、世界の縮図のごとき、社会風刺的なギャグが差し込まれる。風刺は好きなので、笑わなかったかといえば大いに嘘になるけれど、しかし、まったく魅力的でないという意味で、僕には面白くなかった。
ただ、笑った笑わなかったというのは個人差というか、趣味嗜好の問題なのでどうでもよい。そうではなくて、この作品が映画なのかどうかということが問題なのだと思う。そしてその判断には、映画の定義が必要だ。しかし「映画とはなにか」については、はっきり言ってよく分からない。直感は定義づけの原点になり得るので言えば、直感ではこの作品を映画でないとする。少なくとも、映画館で上映されるものがすべて映画とは限らないということが、この作品で定義づけられようとしている。僕の頭のなかで。
ドキュメンタリータッチで描くフィクションというのは決して新しくない手法なので、それをもってして映画でないとするのは苦しかろう。ただ、フィクションはフィクションなので、完全な自然ではなく、作為的な自然が求められる。手持ちカメラのグラグラした映像は、大きなスクリーンでは目が回って仕方がない。観客と対話する気がないのか。誰の視点を借りて描こうとしているのか、どこから観ようとしているのか。大局的な部分があまりに欠乏していて、どうやらそれが非映画を思わせているらしい。
僕には、監督であり主演である松本人志が、どこかどうしても飛び込んでいけない崖があるように思えてならない。恥じらいとでも言うのだろうか。スタッフロール時の映像はまさにそうで、あれがなければもう少し面白く終えられることぐらい、監督としてよく分かっていたはずだ。なのに、まっとうに作ることが恥ずかしくて、それができない。映画を作ろうとしているのに、それができない。
あと30年ぐらいすれば、いまとは別の味わいによって面白みが出てくるかもしれない。そのとき、この作品を映画だったと思わせられれば、本当に天才だと思う。この作品にリバイバルのチャンスはあるのだろうか。