ガラス玉を磨く日々に休みなし

私の嫌いな10の人びと

私の嫌いな10の人びと

年末年始に読んだ(新聞以外の)唯一の書籍がこれ。実家に2冊持ち込んで、結局これだけにとどまりました。選んだ書籍が幸だったか不幸だったか、新年に際してほとんど清清しさがない心境です。もっとも、読まなかったところであまり大きな差は見られなかったような気もしているのですが。
著者の別の本を数年前に読みましたが、もう覚えていません。論文の参考資料にしたような気もしますが、記憶にございません。しかしこちらは、記憶に残るかもしれません。著者が嫌いな10タイプの人間について書かれてあります。一例を書けば、「笑顔の絶えない人」「常に感謝の気持ちを忘れない人」「いつも前向きに生きている人」といったところ。実のところ、見出しのレベルでは逐一頷けるタイプばかりが整列しているのですが、わたしを取り巻く社会を眺める限り、これらのタイプを疎んじるひとは、案外少ない。いや、案外などという時点で、案外マジョリティからはみ出しているのかもしれません。
とはいえ、これはべつに告発本ではなくて、あとがきで著者が「さしあたり物事をよく感じない人、よく考えない人」を批判しているだけであって、つまり思考停止に陥っちゃっている人を嫌いだというわけなのです。あるいは細部を見れば、著者のとっつきにくい部分と小市民な部分とでコミカルなエッセイともとれます。著書をさらっと読む限りではおよそ大学教員をしてはいけなそうな雰囲気なのですが、意外と学科長だったり、学生が好きだったりするようです。
話はちょっとずれますが、最近愕然とするのは、マスコミからSNSの日記に至るまで、どこにそんなフォーマットがあるのですかと問いたくなるような、味も素っ気も、ましてや本人が書いたとおよそ証明できないような文章が量産されていることですね。ついこのあいだも新聞を読んでいて呆れてしまったのですが、トップ面にありがちなコラムで、去年はいいニュースが少なかったとぼやいて、また新年から暗いニュース、どこそこで殺人事件、と書いて段落を区切る。
暗いニュースのない日なんてないし、明るいニュースも然りだ。要するに、暗ければ文章になるから、ネタはなんでもよい。ぼやきは毎年使えるフォーマットにしておいて、残りの文字数に適当に事件を探して、今年も暗い幕開けだとしてしまえばよいわけです。スポーツの結果だって、勝った場合と負けた場合の文章をあらかじめ作っておいて、空欄に点を入れた人の名前を入れれば記事になるようにできてある。というと反発を食らうでしょうが、そうとしか考えようのない文章ばかりだ。
AB型は常になにかを考えている、という説があります。わたしはAB型なのですが、むしろほかの血液型の方がどんなふうに日々を過ごしているのか、(もし違いがあるのなら)まったく想像がつきません。この二十数年間、熱にうなされているときも、たしかに思考停止の時間というのはほぼ皆無だったでしょう。どうせ大したことは考えていないのですが。
思うのですが、毎日、ガラス玉を磨くような行為をしているのではないかと。肉眼で確認できないようなわずかな傷やゆがみを修正している。どうせ完成しないのに。考えるというのはそういうことでしょうか。しかし楽になりたい。思考停止で生きたほうがどんなに楽なことか。今度生まれ変わったら、つまらなくても、ごくごく普通のマジョリティをやってみたいと、ひっそりと思うことがあります。