『紀子の食卓』と虚構をめぐるメモ(酔いながら)

1

先日の『紀子の食卓』では、虚構というキーワードがありました。ある閉じられた社会(サークル)で役割を演じること(レンタル家族)によって、雑事雑念から解放されて、楽になる。本当であるかのように見える偽善的な家族や社会より、虚構をとことん愉しむ。父親や母親の役割の人、先輩の役割、記者の役割、死者の役割の人。誰もやりたがらない役割を演じることが、より高いステージにいることの証明とされ、尊敬される。
高田渡の歌に「死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です」(鎮痛剤)というのがありますけど、誰だって忘れられたら哀れです。それを役割と呼ぶかどうかはべつにして、存在証明は生きていくためにどうしても必要だと思う。それをアイデンティティといいます。紀子が本来の自分として生きていく覚悟を決めたのは、父親という確固たるアイデンティティがあって、それを上回るものが何もなかったからだと解釈しています。逆に妹のユカは、父親や姉やサークルが証明するような存在ではないと自覚したがゆえに、自立の道を選んだのだと。

2

ところでこの映画、実はかなり普遍的なテーマだと思っています。集団生活、社会生活には倫理とか道徳とか秩序とかいうものがあって、それらはたいていむかしからの経験上、集団や社会に危機を招く要員を抑える効果があった。生活の維持には少なからず、何らかの振舞いを必要とされる役割があって、フィクションが生まれる。フィクションを成立させる根拠として、慣習や法規、経典ができる。
カトリック教皇を頂点とした帝国の国教として発達しました。信教の強度とはべつのところにヒエラルキーがあって、教皇は統治者です。その政治的組織の維持のために、さまざまなフィクション(十字軍や異端審問)が実施されるに至りました。宗教改革福音主義が出現した背景には、教皇主義の宗教行為が虚構化したように見えたことがあるのでしょう。福音主義からすれば、教皇主義のヒエラルキー偶像崇拝も、虚構に過ぎない。むしろ聖書こそが実体として存在しています。
もっとも現代社会で虚構を突き破ろうとする力は劣勢になっています。映画のなかでは父親の友人(並樹史郎)が根無し草のような雰囲気を一掃するように叫びます。その刺激が快感に思えるのは一瞬で、結局は虚構にはめられていく。虚構のなかで人びとは、さまざまな思いを包み隠してしまう。完璧に建前だけで生きていくことはできない。包み隠した本音のなかに、99の不一致と1の一致さえあれば、そのわずかな普遍によって、なんとか虚構以外の関係によって繋がれるのではないかと思う。映画では、1の一致を無視しようとするダウナーな状況を、ユカがぶち破ります。

3

たとえば偶像→idol→アイドルというのはフィクション(虚構)そのもので、プライベートでなにをやっても構わない。タバコを吸っても男をつくっても、それがばれずに表向きが成立すれば、つまり虚構を維持できればどうでもよい。そうやって覚めた感じで見られるというのも現代的だと思うけれど。
しかし覚めてばかりもいられない。予測不能なリスク社会だからこそ、虚構のアイドルにも1の一致がある。だれかに「萌え」ちゃうことだとか、オーディションのようなパラダイムだとかの一致があって、その一致によって繋がるために、テキストサイトがある。あべこべなようだけれど、テキストこそが実体として存在する。だいたいテキストサイトの多くはファンの拡大のためにあるのではなくて、自身の信仰の告白のために存在している。そんなもの必要ないように見えるのだが、決してなくなることはない。それは1の一致のためなのだ。

4

虚構はときに、それができたきっかけから切り離されて、宙に浮いてしまいます。再帰的という言葉もある。アメリカのファーストレディは、なぜ黒髪を金髪にしなければならないのか。ただアメリカを代表する家族らしい家族を演出するだけでよかったはずなのに。映画のなかの虚構というのはシンプルなもので、逃げてきた現実のほうがよっぽど複雑な虚構になっています。
保守の考え方では、パラダイム、というと堅苦しいけれど、生まれ育った環境が、考え方を決定付ける。虚構の根拠を感じることなく、漫然と虚構を愉しむだけの環境で育てば、虚構の虚構、さらにそのまた虚構という感じで、表層的なスタイルだけが残ってふらふらと宙をさまようのではないか、と不安がよぎる。
いやいや、流浪していた虚構にも、いつか川に帰る日が訪れる。と思う。ペットボトルの緑茶に香料が入っていたころが懐かしいけれど、お茶らしいお茶というものが遠回りして、そもそものところに戻ってきた格好だ。スーパーに行くと、日本酒が醸造から純米に変わってきているのも、なんだか嬉しい。本物とか真実とかいう言葉が前面に出てしまうから、それを虚構と思って裏切りたくなって、映画のなかのクミコのような考え方に落ち着いてしまう。そうじゃなくて、文明史観で、百年の世界に生きる普遍性を探ればいい。保守の思想です。

5

保守でまとめちゃうのは僕の浅はかさだと思いますよまったく。虚構をめぐる議論は、汎思想的に展開できるものでないといけません。1の一致があるはずなんです。あと、これはリアルとヴァーチャルをめぐる議論ではない。ヴァーチャルに萌えちゃってもいいじゃないか。なぜ萌えちゃったか、というところが重要なのだ。そこに必ず普遍はある。
やっぱりまとまりませんでした。メモにとどめておいてよかった。そもそも映画から離れすぎですね。郊外論をやってもいいんですけど、いまさらしょうがないですから。そいで、ついつい哲学に向かっちゃいましたね。お酒飲みながら言い訳してます、はい。