震える定点観測 『あおげば尊し』

小林達比古が市川作品に帰ってきました。僕は、このふたりによる「定点観測」の大ファンなのです。スクリーンにうつる人びとの体温さえも表現しそうな、それでいて木洩れ日のような優しいカットは、いつ観ても感動的です。僕がいまこうして日本映画を追うようになったきっかけは、このコンビによる『東京夜曲』でした。
ところで今作『あおげば尊し』では、定点観測に、まるで手持ちカメラのような揺れが生じています。とくに前半はそれを顕著に感じます。僕は鑑賞中ずっと、その意味を考え続けていました。
プログラムを読むと、端的に答えと呼べるものが書かれてあります。手持ちカメラの揺れと、主演したテリー伊藤のエネルギーが、市川準監督の感覚では近いのだそうです。ただ、これは受け手としての僕の勝手な解釈ですが、なにか「生きる」ということへの表現が、揺れなのではないかと感じました。余命幾ばくもない肉親を目の前にして、命の重さについて葛藤する、その揺らぎ。
元教師・和治(加藤武)の「最期の授業」の生徒はふたり。息子で教師の光一(テリー伊藤)とその生徒・康弘(伊藤大翔)。生にも死にも現実的な感覚を欠いた子供たちに対して、光一は無力でした。その意味で、彼も少年も、死の意味を捉えようともがく生徒にすぎませんでした。そして、彼らの先生もまた、生涯を先生であり続けたのでした。
最期の授業からラストにかけて、監督の作品にしては珍しく、盛り上がりのあるクライマックスとなります。最期の授業ですでに涙ぐんでいたところを、「あおげば尊し」の大合唱で、本気で泣かされました。こういう閉め方をしない監督だということを知っているからこそ、もうどうしようもなく。そして暗転からエンドロールまでのやや長い数秒間、観客の僕たちもまた、「あおげば尊し」を心の中で高らかに歌うことになるのです。