久々の映画二番勝負

いつ以来になるのか覚えていませんが、ただいま二番勝負の途中です。家の近くの映画館を利用すると、いったん帰宅して休憩できるからいいですね。でも、さすがに三番は稼げそうにないのでやめておきます。

HINOKIO』は大人と子供の中間のひと向け

近所のシネコンでこんな作品を上映するなんて珍しいと思い、ほとんど予備知識がないままに観てきましたが、満足とまではいかないものの、怒りを伴わなかったので、やっぱりよかったのだと思います。いまいちどっちつかずな感じですね。
ロボットが自分の代わりに登校するというアイディアで、逆に肉体や感覚にクローズアップするというやり方は、とても面白いと思うし、表現としてもそれなりにうまくいっています。ただし、引き篭もり状態を脱するプロセスやそれを取り巻く社会の表現が、安直というか機能不全に陥っていて、それが残念です。
戦後教育が云々などと大見得を切ってもボロが出ますが、近代化と科学技術の進歩、それから教育によって私たちは、想像力というのもをかなり損傷してきたのではないかと、観賞後に考えました。すでに各々が獲得する技術が専門化・細分化されており、ある人物が異分野で成功する確率は今後ますます低くなるでしょう。
これは以前から考えていたことなのですが、VFXにしろアニメーションにしろ、それを映画のなかに取り入れることは、まったく異色なことではないし、表現のためならば大いに結構なことだと思います。ただ、映画を撮るのは、依然として映画屋の仕事だと、これは断固としてそう思うのです。
今回、ヒノキオが動き回る映像は本当にすばらしくて、非常に驚いたし、感動しました。これで淡々と日本映画を作るならどんな傑作が生まれるかと、興奮気味に思うほどなのですね。だからこそ、この技術を十分に活かすために、監督は映画屋がすべきだったのではないかと。そうでなくても、たとえば大林宣彦がプロデューサーをやったら、もっとストーリーがすっきりかつ叙情的になったろうと思います。
結局のところ、今回は子供には少々難しく、大人には安直な作品になってしまい、さて対象年齢はいかほどか、という疑問が湧いてしまうわけです。
ところで、多部未華子という新人は、溌剌としていて瑞々しくもあり、いいですね。久しぶりに「よい新人」に出会えました。あのゾクッとする魅力がなんともいえない。

この社会をどう生きるか、『フライ,ダディ,フライ

いよいよ我々も貧富の差というものを痛感しながら生きるようになるわけですが、ピラミッド型ヒエラルキーなので、たいていの人びとは、なにかしら生きにくさを感じながら生きる羽目になります。現に社会は、上には上がいて、下には下がいて、給料は安いしボーナスもこれっぽっち、でも給料がもらえるだけいいのかしら、という労働者で溢れています。そして僕もね。
必ずしもフィルムが時代を映す鏡である必要はないけれども、それでも、共感したり感動したりするのにはわけがあるし、そこに時代性がないといえば嘘になります。
たとえばこの作品では、それまで仕事も過程もうまくいっていた会社員が、娘の不遇で突然ドロップアウト状態に陥る。そのなかで、プライドを捨てて、ただ家族のために夢中になる姿に、観客の我々は、一緒に苦しみ、共感し感激する。たびたび登場するバスの乗客たち(明らかに立場を追われそうなサラリーマン)は、実は観客の我々そのもので、スクリーンに現れるふたつの群像に同時に共感している。逆に、高校生たちの親が一切登場しないことも、共感する対象を絞り込むのに一役買っています。
かといっておじさん限定映画というわけではまったくなく、多数登場する高校生たちもまた、お祭りの出現を意味もなく渇望しているし、無力さに対する葛藤もある。そういったいくつかの面で同時に観客を捕まえていく構造が、実にうまいものです。
あるいはモノクロを含めた映像にしても、脚本にしても、そして役者陣の奮闘にしても、非常に優れており、娯楽映画としてはかなり上質な作品です。とくに役者陣はすばらしい。誰もがすごくいい。演技や演出に関して、気になる点はほとんどありません。脚本がそうさせている部分もあるだろうし、この総合的な安定感は強力です。なるほど、脚本は金城一紀本人なのか。
とにかく面白かった。これなら他人にお薦めできます。星井七瀬渋谷飛鳥が歌う『ね〜え?』を見に行くというのも、邪道ですが、ありです。