ノータイトル

まとまったことをなにひとつ書けそうにないのに、なにかを書こうとしています。なにから書けばよいのかも知らずに、ほんと、よせばいいのにと思うのですけど。この土日と月曜は、アメリカから2年ぶりに帰国してきた友人を歓迎して、やっと今日になってカレンダーをめくって、ついに新しいパスポートを手に入れました。使う当てはありません。
そんなわけでDVDレコーダーにたまった番組を消化しておりましたが、『ハロモニ。』の冒頭、「スッピンと涙。」のところで完全に止まって現在に至ります。チャプターを作って、リピートしたきり、その先に進めません。メロディに無駄がないなあ。スマート。さすがだと思いつつも、きれいと美しいとは違うんだよなあとついつい考えます。
そうはいっても、誰かに怒られそうですが、爆発的なヒットを生まなくてもいい余裕というか、小粒でもいい楽曲を淡々と歌えばいいのだから、もう十分だと思うのですよ。ホントに怒られそうだな。話を無駄に捻じ曲げますけど、誰か故郷を思わざる。故郷感の強さは、生きていくうえで、実に、糧であり武器ですね。故郷と向き合うということではなく、根底として、ただ心的にあり続けるということが、またそのことが自明でないからこそ一層、すごいです。
ちょうど消化した番組の中に『情熱大陸』があって、かの菊地氏も故郷感をベースとして持っていることが紹介されたわけです。あるいは西部邁氏は『友情』のなかで「自分自身について思うこと」として、第一に「感情の核心は幼少期に創られる」、第二に「感情の核心が論理の在り方を定める」、第三に「繰り返し想起される記憶は、安定した論理によって再表現される」と述べます。
いまは社会に深みがないというか、感情を揺り動かすようなふり幅がないというか、「浅い時代」だと僕は思っています。シンボルや敵がいないのは非常に不安定で、そういうときだからこそ故郷感は大切にしたいところなのですが、故郷ってなんなんだよという話になってしまって、ジエンドなのですよね。ヨーロッパはこの点で強い気がします。
さて。完全にタイピングが止まりました。なにについて書きたかったのでしょう。モーヲタモームスを語るとき、時代背景を材料としない傾向が強いように思うのですが、あれはなんでですかね。90年代って、なかなかふり幅の大きな時代だったと思うのですけど。
あ、『サヨナラCOLOR』のサイトができてる。また観に行かないと。かなりストーリーを忘れてる。