「地球で最後のふたり」に完敗

かれこれ30分ぐらい、キーボードを前にして固まっておりました。どう感想を書いたらいいものか、そしてそれ以前に、どんなタイトルで書き始めたらよいものか。上手い一言で言い表してみたいけれど、一言どころか、いくら言葉を使っても、僕のボキャブラリーではとても感想を書き得ない気がするのです。そう、僕は負けたんです。だから、素直にタイトルをつけてみました。
浅野忠信主演のタイ映画。以前、ラッタナルアーン監督のインタビューを新聞記事で読んだことがありました。そこで監督は「キスまでのプロセスに興味があるんだ」という趣旨のことを語っていて、非常に興味が湧きました。実際、作品のストーリーはそれを裏切るものでなく、よく練られた脚本と、心境の変化を実に巧く表現した演出、そして浅野忠信の演技力によって(初めてこの人の演技をすばらしいと思った)、爽やかでコミカルで、ちょっぴりもどかしい物語になっているのでした。もっとも「もどかしい」というのは僕がそう思ったわけではなくて、非常に客観的な見方をしたときの表現なのですが。むしろ僕にはとても好感の持てるストーリー展開でした。正直に言えば、こういうの大好きです。
そしていまここには、この感想をなんとか書き終えるまでのプロセスを、きわめてもどかしく進み続ける僕がいます。ストーリーのすばらしさから書き始めたわけですけど、むしろ映像美のすばらしさから切り込んでいくべきだったかもしれません。ただ、どちらかを取ればどちらかの感想を薄めることになる。どちらも立てたいけど、どちらも立てるには僕の腕がない。
脚本や演出のディテールに関してもう少し書くと、撮影に至るまでのプロセスのすばらしさを推し量ることができます。つまり、監督や脚本家がタイ人で、主演ほかで日本人(しかもプロ中のプロ)が大勢いて、撮影監督クリストファー・ドイルは香港映画の人だ。たとえば日本語の言い回し、語句の選び方、大阪の風景、そのどれもが日本映画のそれと同化していて、そこに徹底した議論の跡を見つけることができるというわけです。僕がどうしてそこに言及せざるを得ないかというと、日台合作の「珈琲時光」とどうしても比較してしまうから。あるいは「ラストサムライ」と比較しても構わないのだけれど、合作映画では役者も監督も、みんなみんながっぷり四つでかからないといけないのだということを、これでもかというぐらいに考えさせられます。
そして映像美と演出のことなのです。暗闇の黒、街頭の白、屋台の白熱灯、水草の緑、オレンジ、寝具の青、壁の白、あるいは壁の青緑、血、草むら、水槽の金魚、セーラー服、真っ白なシャツ、ハイネケン。構図や光、時間。その鮮やかさや組み合わせの美しさには目を奪われます。そして、ときおり登場する非現実のシーン。その多くは主人公の心境や妄想のようですが、現実のシーンでは完璧に捉え難い、「地球で最後のひとりとひとり」が「ふたり」へ移りゆくプロセスを巧く表現しています。
そういうわけなので、この作品タイトル「地球で最後のふたり」という言葉は、鑑賞後に味わい深くなります。なお、英語では「Last life in the universe」です。「ふたり」が大事なんです。その思いを外国人と共有できないのは、きわめて残念。彼らは確実に、損をしていると思うのです。